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1848年11月11日に生まれた佐久間恪二郎(さくまかくじろう)は、幕末の洋学者・佐久間象山とその妾・お蝶の子として生まれた。
1864年、父・佐久間象山が、一橋慶喜に招かれて京にのぼった際、佐久間恪二郎も従って京に入った。
しかし、京都は尊王攘夷を唱える長州藩らの志士で溢れており、幕府よりだった佐久間象山は命を狙われて、7月11日に暗殺されてしまった。
その時、会津藩士として京都の警備をしていた父の門弟・山本覚馬に仇討ちを勧められて、勝海舟の紹介状を持って近藤勇の新選組へ入隊した。
新選組に入ったあとは局長・近藤勇の側近となり、他の平隊士よりも特別扱いを受けたが、高価な刀を自慢するなど、次第に父譲りの傲慢さがあらわになり、芦谷昇らと共に粗暴を働くようになった。
その為、土方歳三や沖田総司からは終始目を付けられていたと言う。
その後、沖田総司から「2人で飲みに行こうと」と誘われると、粛清されると思い、芦谷昇と共に新選組を脱走。
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その後、悪事を働き投獄されたが、許されると、1868年、父の門弟だった勝海舟を頼って慶應義塾に入学するも女にうつつを抜かし中退。
養母・勝順子の姓である三浦に改名し、三浦啓之助と称した。
明治維新後は、恪(いそし)と名を改め、佐久間象山の息子であることを利用して司法省に出仕。
しかし、警察官と喧嘩を起こして免職となった。
その後は、松山県裁判所判事として松山に赴任したが、明治10年(1877年)2月26日、うなぎの蒲焼の食中毒で頓死。享年31。
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