伊藤兼子(渋沢兼子)ちょこっと解説~渋沢栄一の後妻になる12歳年下の女性

伊藤兼子(渋沢兼子)



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伊藤兼子とは

伊藤兼子(いとう-かねこ)は、明治時代の女性で、渋沢栄一の後妻となった女性です。
渋沢栄一は、1882年(明治15年)7月14日にも前妻・尾高千代 (渋沢千代) を、コレラにて亡くします。
その後、後妻に迎えたのが、伊藤兼子と言う女性でした。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」では、女優の大島優子さんが、伊藤兼子を演じられます。


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伊藤兼子は、伊勢八という油屋の主人・伊藤八兵衛の娘で、5女です。兄弟は8人いた模様。
伊勢八は、もともと、水戸藩ご用達の商いをおこなっていた模様です。
ただし、明治に入ると、没落したようで、伊藤兼子は、芸妓となって、家計を支えようとしました。
しかし、芸子の道はないけど、妾の道ならと、勧められたようで、渋沢栄一の継妻(けいさい)となった次第です。
なお、実際に、どうして渋沢栄一と知り合ったのか?などは、あまり知られていないようです。


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大河ドラマにおいては、平岡円四郎の妻である平岡やす (木村佳乃さん) が、三味線の師匠をしており、芸者見習いとして伊藤兼子が入門し、渋沢栄一と出会うような、演出になっている模様です。
一応は、水戸藩(一橋家)つながりと言う事ですね。

諸説ありますが、明治16年1月頃、渋沢栄一(43歳くらい?)は、伊藤兼子(31歳くらい?)と、すでに再婚していたと言う、後年の回想もあり、3男・無相真幻大童子が生まれています。(生後すぐに逝去)
下記はTwitterにあった情報を、公式な方法で共有表示したものとなります。

なお、深川にあった渋沢邸は、伊藤兼子の実家が、没落した際に、手放した屋敷だったと言います。
そして、明治17年、4男・渋沢敬三郎が生まれますが、翌年に夭折しました。

その後、明治18年12頃に、伊藤兼子が再び妊娠したことがわかり、このとき、正式に再婚したとあります。
妾(めかけ)であった伊藤兼子は、後妻と言う、正式な妻の座となった訳でして、明治17年に、5男・渋沢武之助が誕生しました。
ちなみに、成長した渋沢武之助は、石川島飛行機製作所の2代目社長になり、隼戦闘機など、陸軍の航空機を製造しています。


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なお、渋沢栄一には、庶子など子供が、たくさんおりましたので、渋沢兼子も、悩まされたことでしょう。
渋沢栄一は、1931年(昭和6年)に死去し、渋沢兼子は、1934年に亡くなっています。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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