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NHK朝の連続テレビドラマ(2014年10月~3月)「マッサン」で、主役ヒロインとして登場しているスコットランド人の亀山エリーさん。
実在するニッカウウイスキーの創業者である竹鶴政孝の妻・エリーを演じるのは、アメリカ出身の女優、シャーロット・ケイト・フォックスさん。
シャーロット・ケイト・フォックスさんは、アメリカ人ですが、祖母は『マッサン』で演じるエリーと同じスコットランド出身だそうです。
映画への出演歴もありますが、エキストラのような役で、ミュージカル「シカゴ」の部隊で主役級でもありましたが、劇場は有名ではありません。
しかし、サンタフェ大学の演劇ダンス専攻でBFA(学士)を取得したのち、ノーザンイリノイ大学で演劇専攻のMFA(修士)を修了。そして、ステラ・アドラー演技学校などで学ぶなど、演技理論を兼ね備えているようです。
シャーロットさんは日本にも来たことがなく、もちろん日本語が話せませんでしたが、「マッサン」のオーディションに応募すると、日本国内232人、日本国外289人の応募者の中より選ばれました。
既婚女性である為、アメリカの家族とはSkypeで会話しているそうです。
京都での撮影では、ぎょうざを気に入り、日本での活力はぎょうざのお蔭と話しています。
さて、エリーですが、実在したスコットランド女性の名は、ジェシー・ロバータ・カウンさんで、日本名は竹鶴リタさんです。
玉山鉄二さんが演じる竹鶴政孝さん(ドラマでは亀山正孝さんと言う名)が、スコットランドのグラスゴー大学に留学していた際に、柔道を教えに行った医師の家、カウン家で出会ったのでした。
そして、ジェシーさんと竹鶴政孝さんは親交を深め、国際結婚がまだ馴染みのない時代に、家族らの抵抗を受けながらも結婚したのでした。
ジェシーさん(リタさん)は、日本の生活に溶け込もうと努力を重ね、漬け物や塩辛まで手作りし「日本人以上に日本人らしい」と評価されたそうです。
日本語の勉強にも励み、流暢な関西弁を操るまでになりましたが「マサタカサン」という発音が難しかったためか、竹鶴政孝さんのことを「マッサン」と呼びました。
竹鶴政孝さんは、竹原市で酒造業・製塩業を営む大地主の3男として生まれ、阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造学科で学ぶと、洋酒にも興味を持ったそうです。
そして、卒業を待たずに大阪の摂津酒造 (摂津酒精醸造所)に入社するとすぐに頭角を現し、主任技師に抜擢されました。
徴兵検査で乙種合格となりましたが、検査官は「アルコール製造は火薬製造に必要な技術であり、入隊させずに今後も製造に従事させたほうが軍需産業を活性化させる」と判断し軍隊に入る事は許されました。
この当時、まだ日本では純国産のウイスキーは製造されておらず、1918年に社命を受けて、竹鶴政孝さんはスコットランドに留学します。
そして、ジェシー・ロバータ・カウンさんと知り合い、現地の教会で寂しく2人だけで結婚して、日本に帰ってきました。
当然、日本でも家族に結婚を反対されましたが、竹鶴政孝さんが分家すると言う形で一応決着しています。
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国産ウイスキーの計画は、残念ながら世界恐慌で頓挫し、竹鶴政孝さんは1922年に退社して、桃山中学(現:桃山学院高等学校)の教員となり、生計を立ててします。
1923年、大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)が本格ウイスキーの国内製造を開始する為、社長の鳥井信治郎さんがスコットランドの現地に適任者がいないか連絡したところ、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答があったと言います。
鳥井社長は以前に摂津酒造に模造ワイン製造を委託していたこともあり、竹鶴政孝さんとも数回会ったことがあったと言います。年俸4000円という破格の給料で、竹鶴政孝さんは採用されたのでした。
竹鶴政孝さんは、製造工場をスコットランドに似た風土の北海道に作るべきと考えていましたが、鳥井社長は輸送コストがかかることと、客に直接工場を見学させたいという理由で難色を示した為、大阪近辺の約5箇所の候補地から、良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼスの風土に近く、霧が多いという条件から「山崎」を候補地として、工場および製造設備ほ竹鶴政孝さんが設計しました。
1924年に山崎工場が竣工し、竹鶴政孝さんが初代工場長に就任。最初は、竹鶴政孝さんと事務員が1人いるだけの小さな工場だったようですが、醸造を行う冬季には故郷の広島から杜氏を集めて製造を行ったと言います。
竹鶴酒造~竹鶴政孝さんの生家
広島県竹原市の鎮海山城や長生寺さんを訪れる機会がありましたので、竹鶴政孝さんの生家である竹鶴酒造さんを拝見して参りました。
古い町並みが残っている竹原の一角に竹鶴酒造さんの建物がありました。
江戸中期である1660年代に小笹屋(おざさや)と言う屋号で製塩業を始めたとの事です。
製塩は冬になると仕事が減る為、1733年からは酒造も開始したとの事で、現在も小笹屋竹鶴などの銘柄でお酒を製造販売なさっておられます。
竹鶴酒造さんかある場所は下記の地図ポイント地点となります。
1929年4月1日、故郷からの人材の支援を受けてウイスキーづくりを始めて、竹鶴政孝さんが製造した最初のウイスキー『サントリー白札』が発売されました。
しかし、本場のスコッチ・ウイスキーの味がわからない日本人には余り受け入れられず、販売は低迷したと言います。
1934年3月1日、ウイスキー造りを鳥居社長の長男・鳥居吉太郎に一通りの事を教え終わると、北海道余市町でウイスキー製造を開始することを決意して寿屋を退社。
出資者を集めて7月に大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任しました。
株主は芝川又四郎や、食通で知られた柳沢保恵(やなぎさわ・やすとし)らで、筆頭株主は加賀証券の社長・加賀正太郎さん。
加賀社長の妻は1924年以来、竹鶴の妻・リタさんから英会話を学んでいたと言います。竹鶴リタさんが、ニッカウヰスキー誕生に一役買っていたのです。
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しかし、ウイスキーは製造開始から出荷できるまで数年要することから、事業開始当初は、余市特産のリンゴを絞って、リンゴジュースを販売したと言います。
これは、大恩ある寿屋と鳥居社長への配慮として、ウイスキーを最初から作ると言う計画では無かったとされます。
竹鶴政孝さんは、リンゴジュースでも、混ざりもの無しの拘りを貫いた為、日本初の果汁100%リンゴジュースとして大変高価なジュースとなりました。その為、あまり売れず返品が相次いだそうです。
でも、返品されたリンゴジュースを使って蒸留酒を作ると言う考えもあったようです。
その他にアップルワインや、リンゴゼリーなども販売しました。
1935年9月に、妻・リタさんを余市に呼び寄せ、1940年、余市で製造した最初のウイスキーを発売。社名の「日」「果」をとり『ニッカウヰスキー』と命名されました。
エンブレムの中央には、武芸を意味する山中鹿之助(山中鹿介)の兜が描かれました。
その直後、戦争に突入した日本では、ウイスキーは統制品となり、日果の工場は海軍監督工場として、終戦までは配給用のウイスキーを製造しました。
イギリスからウイスキーの輸入が途絶え国産ウイスキーの需要は高まります。
また、将校への配給用の酒を製造するために優先的に大麦などの原料が割り当てられたため、物資の乏しい戦争中でも生産が継続できました。
1943年(昭和18年)、竹鶴政孝さんが社長に就任。
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戦後は、同業他社より低質の三級ウイスキーが相次いで発売されましたが、ニッカでは品質重視で低価格のウイスキーを発売しなかったため、再び経営が苦しくなります。
加賀正太郎は経営改善のため、再三に渡り三級の発売を要求。
1950年(昭和25年)と1951年(昭和26年)に、低質の三級ウイスキーであるニッカポケット壜ウヰスキー、ニッカ角壜ウヰスキーを発売しましたが、当時税法の制限ギリギリ5%まで原酒を入れ、着色料も砂糖から自社生産したカラメルを使用したと言い、あくまでも品質への拘りが見えます。
1952年(昭和27年)、ニッカウヰスキーに商号変更し、本社を東京都中央区日本橋に移転。
なお、ウイスキーを瓶詰めした段階で酒税が掛かる仕組みであったため、輸送中の破損などでの輸送コストを軽減する為、現在の六本木ヒルズの土地に瓶詰めの東京工場を建設しました。
1954年(昭和29年)、病床にあった加賀正太郎さんが、死後に株がヘタな人の手に渡らないようにと、他の主要株主と共に朝日麦酒(現:アサヒグループホールディングス)に保有全株式を売却。
思わずニッカは朝日麦酒グループの傘下に入りましたが、当時の朝日麦酒社長は、竹鶴政孝さんの知り合いでもあった事から、朝日麦酒は役員1名を派遣したのみで製造には口を出さなかったと言います。
当時、ニッカの二級ウイスキー(かつての三級ウイスキー)は他社製より高く、あまり売れていませんでした。
朝日麦酒から派遣された弥谷醇平が「売り上げが倍になれば、品質を落とさなくても他社と同価格で販売できる」と竹鶴政孝さんを説得。
1956年(昭和31年)、新二級ウイスキーの丸びんウヰスキー(通称、丸びんニッキー)を、業界首位の寿屋(サントリー)の主力商品・トリスウイスキーと同価格で発売し、積極的な宣伝を行うとニッカの二級ウイスキー売上げは1年で倍増し、ニッカの売上額も業界3位から2位に浮上しました。
1959年(昭和34年)には、朝日麦酒が資本増資を行い、のち西宮工場にてグレーンウイスキーが製造できるようになり、ブレンドの幅が広がりました。現在、グレーンウイスキー製造は、1999年(平成11年)から仙台工場に移設されています。
晩年の妻・リタは肝臓や肺を病んでいたことから、神奈川・逗子(竹鶴政孝が滞在する東京に近くて治療にも便利だったため)で過ごすことが多かったようです。
しかし、1960年(昭和35年)の秋、自身の希望で余市へ戻ったと言います。
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1961年1月17日、妻・竹鶴リタさん没。
その後、ニッカは日本初のモルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドしたハイニッカや、2種のウイスキーをブレンドしたブラックニッカなどを発売するなど、残された竹鶴政孝さんも精力的にウイスキーづくりを続けました。
1969年、宮城峡蒸溜所(仙台工場)が完成。
1979年8月29日、竹鶴政孝さん没。
現在のニッカは完全にアサヒビールグループの一員ではありますが、余市工場では、世界で唯一のものとなった『石炭直火式蒸溜』でモルトウイスキー製造を続けているなど、今でもニッカでは創業者・竹鶴政孝さんからの拘りあるウイスキー製造が続けられています。
(参考) Wikipedia
サントリーの創業者「鴨居欣次郎」こと鳥井信治郎に関してはこちら
筆頭株主・加賀正太郎氏に関してはこちら
たけはら町並み保存地区【広島県竹原市】ノスタルジー溢れる町並み
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