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正親町公董(おおぎまち-きんただ)は、公家・中山忠能の子として、1839年1月24日に生まれた。
その後、正親町実徳の養子になっている。
なお、父・中山忠能は公武合体派の公家として活躍したことから、尊王攘夷派から睨まれて1863年に失脚。
そのあとは、尊王攘夷に鞍替えし、長州藩の力を借りて復権しようと考えたようで、その交渉役として国事寄人の正親町公董は家士・徳田隼人らと山口に赴いた。
その時である1863年、中川宮・薩摩藩・会津藩による八月十八日の政変が勃発し、山口にいた正親町公董が7卿落ちの公卿らと接触したあと、一旦九州に赴いてから京に戻ると、孝明天皇より差控処分となっている。
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1867年に、父・中山忠能が岩倉具視らと王政復古の大号令を実現させると参与として復帰し、戊辰戦争においては江戸に向かった長州藩士・広沢平助や、西郷隆盛らと官軍の参謀として赴いた。
また、奥羽追討総督を務めあげている。
その後、陸軍に入り、明治2年には陸軍少将。
明治12年12月27日死去。41歳。
(参考) Wikipedia
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