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大浦慶(おおうらけい)は、長崎でも屈指の油問屋を代々営む、大浦太平次と大浦佐恵の娘として1828年に生まれた。
しかし、幕末の頃は安い輸入油に押されてい経営状態も悪くなってきていたところ、16歳のとき、1843年10月24日に長崎で526戸が焼ける大火で、大浦家も大損害を受けた。
翌年(1844年)、蘭学を学びに長崎に赴いていた天草出身の庄屋の息子・幸次郎(秀三郎とも?、番頭だったとも?)を婿養子に迎えた。
しかし、大浦慶は、この幸次郎のことが気に入らず、祝言の翌日には追い出したと言う
以後、大浦慶は、一生独身を貫いた。
また、20歳のときに上海へ密航したことがあると晩年に語っていたと言う説もある。
大浦家はもともと中国(清)を相手に貿易を行っていたが、26歳のとき、欧米にも日本の「茶」を売り込むことを考えると、佐賀や長崎が産地の「嬉野茶」を1853年、阿蘭陀通詞・品川藤十郎の協力を得て、出島にいたオランダ人・テキストルに託した。
茶の見本はイギリス、アメリカ、アラビアの3ヶ国へ渡ると、その3年後に日本はイギリスに対して長崎を開国。
そして、1856年8月にイギリスの商人・オルト(オルート)が長崎に来航した際に大量の注文を受けた。
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12万斤(72トン)もの大量の注文を確保する為には、嬉野茶だけでは足りず、人海戦術で九州一円から集めたが、それだも1万斤(6トン)しか用意できなかったが2000両で売れたと言う。
※大浦慶は、1斤を通常の600gではなく、約900gとしていたとする説もある。
しかし、大量のお茶が初めてアメリカに輸出され、大成功を収め、日本茶の海外輸出の先駆けとなり、日本茶を世界に広めることとなった。
当時の女性としては珍しく外国人を相手に商売で成功した大浦慶の名は知れ渡り、グラバーを介して坂本龍馬に会うなど、大隈重信・松方正義・陸奥宗光ら幕末の志士とも親交がある。
その後も、1860年代後半まで大浦慶は日本茶を輸出し、莫大な富を得たが、やがて明治維新となり。大産地・静岡から日本茶が輸出されるようになると、取引量が減り、違う品の貿易を考えるようになった。
明治4年(1871年)、輸入反物で失敗し借金を抱えていた元熊本藩士・遠山一也に騙されて、イギリスのオールト商会が熊本産煙草15万斤の購入する為の手付金3000両の保証人となる。
しかし、遠山一也は3000両(現在の価値で約3億円)を持ったまま、煙草を引き渡さなかったため、大浦慶はオールト商会から訴えられた。
裁判の結果、遠山一也は詐欺罪で懲役10年となったが、大浦慶も保証人を引き受けていたため、1500両の賠償金を支払う事となり、財産は差し押さえられ、不遇な晩年を送る事となった。
しかし、事業は失敗したが、明治12年に元・アメリカ大統領ユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際には、各県令らと共に女性で唯一、大浦慶が艦上に招かれると言う名誉も受けた。
また、日本茶貿易の先駆けとなった事は明治政府からも認められ、茶業振興功労褒賞と金20円を贈られた1週間後の、明治17年(1884年)4月13日に永眠した。57歳。
借金は無くなるまでに完済していたと伝わる。
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