浅野内匠頭が吉良上野介を斬った理由は? 松の廊下刃傷事件
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松の廊下刃傷事件とは
今回は、赤穂浪士の事件で知られる、浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷に及んだ件に伴い、いつも当サイトをご覧頂いております、高橋様よりご質問を賜りましたので、お調べしてみましたことをここにて掲載させて頂きます。
高橋様からのご質問としては抜粋しますと、下記の通りです。
(1)松の廊下で、刀を抜かせる程、浅野内匠頭を怒らせたものは何だったのか?
(2)その時、お金の問題は絡んでいなかったのか?浅野内匠頭が、吉良上野介に700両の負担で良いと思うと言うと、吉良上野介は1000両近く出してもらわないと困ると答えたとも?
そのご質問を6月に頂いていたのですが、そのコメント欄は当方に通知される仕組みではないため、うかつにも当方が気が付いたのは8月でした。
大変申し訳なく存じております。
しかし、偶然にも7月に、このサイトにて赤穂浪士を取り上げておりました。
忠臣蔵は、調べつくして記載しますと、小説のような大編となってしまいますので、偶然にも7月に、幕末維新のサイトの方にて「5分でわかる」シリーズとして簡単に赤穂浪士に関して記載していた次第です。
それなのに、高橋様からのご依頼にずっと気が付かず、本当に失礼致しました。
まず、浅野内匠頭が吉良上野介への刃傷に及んだ理由、そしてそれが指導料として納めていた金額に由来するのか?は、当の本人にしかわからない話でして、我々は想像するしかないと思います。
個人的な解釈となりますが、吉良上野介から意地悪され続けたため、堪忍袋の緒が切れた浅野内匠頭は、短い刀にも拘わらず、斬りつけたのだと思っております。
高橋様ご指摘の700両、1000両の話ですが、調べて見ますと、下記のような事がわかりました。
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饗応予算をケチったか?
当時の饗応費用は、接待役となった藩が負担していました。
この時の予算は赤穂藩は1200両とされていたにも拘わらず、浅野内匠頭が指南役・吉良上野介に無断で予算を削って700両しか充てなかった事から、吉良上野介が浅野内匠頭を叱責したとも、意地悪したともされ、それを恨んだ内匠頭が刃傷におよんだと言う説があるようです。
浅野内匠頭は今回が2回目の接待役であり、前回(1683年)のときは400両を使ったとされています。
1701年、松の廊下事件の際には、700両と言う事になり、実際に増額して赤穂藩も対応していたと数字上は感じられますが、物価が違います。
1683年と1701年ではコメの物価が2倍上がっていますので、吉良上野介を斬った時の予算は、前回と比較すると「減少」しています。
もちろん、財政が苦しいと言うお家事情もあったことと思いますが、なぜ、そのような予算設定にしたのかは、今ではわかりません。
吉良上野介が1200両の予算を要求したのには、訳があると推定されています。
それは、生類隣みの令にもみられるように、この時の徳川幕府は普通ではありません。
柳沢吉保の意向もあったようですが、5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院に対して、朝廷より「従一位」と言う、女性では最高位となる官位を得たい為、1701年は非常に重要な接待と位置づけられていたようです。
そのため、なんとしても勅使の接待を成功させたかったので、予算も高い設定になったと考えられます。
賄賂が足りなかったのか?
指南役の吉良上野介に対して「御馬代」として納めていた、いわゆる「賄賂」は大判1枚です。
そして、無事に接待を終えた後にもう1枚贈るのが通例だったようです。
浅野内匠頭も1回目に指南を受けた18年前はそのようにしたようですが、松の廊下事件には2回目と言う事もあり、大判1枚(約200万円相当)、巻絹1台、鰹節一連(2本)を吉良上野介に贈っただけだったようです。
ちなみに、同じく接待役であった伊予吉田藩・伊達村豊が贈った大判の枚数は「100枚」とされます。
スゴイ額ですよね。
100枚贈ると言うのが無理な話でも、18年前と比べて物価も2倍になっているのですから、前回と同じ大判1枚だけと言う事では、吉良上野介が少ないと感じて、意地悪した事にもある意味納得できてしまいます。
賄賂じたいが、現在で言う「悪い事」ではなく、ある意味、世話になる御礼と言う側面もあったと思います。
お礼ですから、本来であれば、額が少ない多いで、差別するような事はいけないはずです。
しかし、結果的に吉良上野介は浅野内匠頭に対して、キツク当たったのでしょう。
このように安易にお金を渡して解決しようとするのではなく、そんな風潮に惑わされることなく浅野内匠頭のように真面目にやっている人が「損」をすると言う元禄時代であったため、江戸の庶民も赤穂浪士の討ち入りを絶賛したのだと思います。
参考にしたのは中江克己著「忠臣蔵の収支決算」です。
以上、簡単ではございますが、私からの回答に代えさせて頂きます。
下記は江戸東京博物館にある松の廊下の模型です。
追記・赤穂藩の債務など
「忠臣蔵」の決算書と言う本によりますと、赤穂藩がおとり潰しになった際の債務は、領内に発行していた藩札だけで約18億円です。
この18億円と言うのは、赤穂藩の年間予算に匹敵する額だったそうでして、当時は江戸幕府のみならず、各藩も「赤字」で多くの債務を抱えています。
当然、債権者は大騒ぎになり、赤穂藩は踏み倒しできたのですが、大石内蔵助は藩札の額面6割を返還することで、理解を得ており、美談として語られています。
また、300名の藩士には退職金として、総額23億5千万円(単純平均で1人780万円)を支給したそうです。
しかし、大内内蔵助は700両(約8400万円)を「討入り費用」にと確保していたようです。
討ち入りの武具購入費などは約130万円ほどだったそうですが、もうその頃には、軍資金も底をついていたようでして、今討入りしなければ、もう機会を失うと言う瀬戸際でもあったようです。
・吉良上野介屋敷跡~本所松坂町公園の吉良邸跡
・赤穂浪士【5分でわかる忠臣蔵の物語と忠義】
・大石内蔵助 3分で分かる大石良雄の生涯【赤穂浪士・忠臣蔵】
・堀部安兵衛の解説 赤穂浪士での忠義
・小野寺十内(小野寺秀和) 赤穂浪士
・芝の増上寺の見どころ~徳川将軍家墓所(徳川家霊廟)もある徳川家の菩提寺
・赤穂城と大石内蔵助邸【訪問記】播州赤穂城
・東京の幕末・戦国史跡巡りに便利な独自Googleマップ
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コメント
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2015年 8月 21日トラックバック:赤穂浪士【5分でわかる忠臣蔵の物語と忠義】 – 幕末維新
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2015年 11月 22日トラックバック:播州赤穂城の写真集~おつな雨風情の赤穂城
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2015年 12月 01日トラックバック:吉良上野介屋敷跡~本所松坂町公園の吉良邸跡 – 幕末維新
井伊大老は、むやみに、外国船を打ちはらうのではなく、ここで西洋の軍事、技術を取りいれて日本の国力をつけることの方が、優先されるべきと考えたのですね。なかなかの政治家じゃないですか。不平等条約は、しかたありませんかね。そして、イギリスなどに、脆弱性を見せたら、横浜あたりを100年間貸してくれなどと、言われかねなかったかもしれません。でも、列強は、日本の結束が固いので、侵略行為は割に合わないとして、あきらめたと私も考えます。
佐久間象山などもしきりに幕府に対して国防の重要性を説いていたと何かの本で、読んだことがあります。丁寧な回答どうもありがとうございました。
高橋様、コメントありがとうございます。
色々なご意見もあるかと存じますが、私は、イギリス・フランスはあわよくば日本も植民地にしようと言う考えは、少なくともあったと思います。
もちろん、アメリカも先を越されない様、日本に接触してきた訳です。
当然、徳川幕府の井伊大老なども軍事力の差が分かっていましたので、危機感を持って対応したのだと思います。
19世紀中頃になると、イギリス、フランスを始めとする、ヨーロッパ列強及び、アメリカが、東アジアに積極的に進出してきます。世界は、植民地時代になって、中国などは、アヘン戦争でつらい目に合ったりもしています。ここでお伺いしたいのですが、あわよくば、列強たちは、日本を半植民地化したいという野望があったのでしょうか?
この辺を、教えていただければ、幸いです。
高橋様、ご丁寧にありがとうございます。
赤穂藩は確かに副収入がありましたが、この頃は、幕府も藩も、どこもかしこも「借金だらけ」ですので、財政的には苦しかったはずです。
その辺り、上記の本文内・末筆に追記してみました。
以上、ありがとうございました。
しばらく、家を留守にしておりましたので、お礼のメール、大分、遅れて申し訳ありませんでした。また一つ江戸時代の象徴的な事件が、明らかになって嬉しい限りです。松の廊下の刃傷沙汰は、やはり単純な個人的なトラブルからではなく、根底には、藩の財政すなわちお金の問題が大きな比重を占めていると私は、思います。
成程、内匠頭は、1681年。400両だったから、今回、物価の上昇も考慮して700両で良いだろうと勝手に思い込んでしまったわけですね。大江健三郎さんもこの辺のことを読まれてエッセイを書かれたのでしょう。ところが、インフレはそれどころではなく、1200両の域にまで達していたわけです。そして世の中は、確か元禄ですが、何かお金がぐるぐる回っている気がしますけれども、幕府の財政はどうだったのでしょう。
また、賄賂と呼ばれる振舞も現在のモラルで見るのは間違いで、習慣になっていたのですね。赤穂藩は良質の塩が取れ、かなりの裕福な藩と聞いたこともあります。確かに、大判一枚とかつお節では、吉良もあっけにとられたことでしょう。内匠頭は、民を思う節約を旨とする藩主だったのでしょうね。あんなに臣下から慕われたわけですから。
私は、徳川幕府は、お公家さんに対しては、全くと言っていいくらい歯牙にもかけなかったと思っていたのですが、桂昌院が、従一位を賜るための勅使接待に、とんでもないお金がつかわれていたのですね。やはり、朝廷の権威というものは、当時でも1500年以上の歴史があったわけですから、根強いものがありました。それにしても、賄賂といい、上級武士達には、何万両と言うお金がもたらされたようですが、農民に向けては、年貢の還元としてお金が回ったという話はあまり聞いたことがありませんね。
ペリー来航時、列強が、日本を中国のように隙あらば、半植民地化する野望があったのかどうか、またその幕府の対応にも興味があります。木枯らしの便りを聞く頃、ご意見、情報を伺えれば幸いです。
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