堀部安兵衛(ほりべ-やすべえ)の解説 赤穂浪士での忠義

堀部安兵衛



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堀部安兵衛と聞くと、赤穂浪士で一番の剣豪と言うイメージですが、どのような人物たったのか解説してみたいと存じます。
堀部安兵衛(ほりべ-やすべえ)の正式な名前は、堀部武庸(ほりべ-たけつね)と言います。
生まれたのは1670年で、200石の新発田藩士・中山弥次右衛門の長男でした。
200石ですので、中堅武士の家庭と言えますが、母は溝口盛政の6女です。

ここでピンと来る方はスゴイ見識ある方ですが、新潟の新発田藩で溝口家と申しますと、藩主である溝口氏に関連します。
戦国時代に、溝口秀勝が新発田城に入ったのが、新発田藩の始まりとなります。


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ただし、母の父となる溝口盛政(みぞぐち-もりまさ)は、直接、溝口家と血が繋がっているわけでは無く、もともと、丹羽長秀の一族です。
丹羽家が改易になった際に、溝口家に仕えた盛政は信頼を得て、溝口秀勝の5女・糸姫を正室に賜り、溝口姓を名乗ることも許されたと言う事になります。
その娘である6女が、中山安兵衛(堀部安兵衛)の母となります。

しかし、その母も、産後の状態が良くなかったようで、中山安兵衛(堀部安兵衛)が生まれてからわずか5ヶ月で亡くなります。
そのため、幼いころより、父が男手ひとつで育てあげました。

ところが、1683年、中山安兵衛(堀部安兵衛)が13歳のときに、父は城での失火の責任をおって藩から追放されます。
そのため浪人となりましたが、その父もまもなく死去し、中山安兵衛(堀部安兵衛)は孤児となりました。

その後、母方の祖父・溝口盛政が引き取りましたが、2年ほどでその祖父も死去したため、その後は、姉・きんの嫁ぎ先の長井家に身を寄せたと言います。
このような不遇もあったためか、19歳になると江戸に出て剣術道場に入門しますが、そこで剣の腕を認められるようになります。

剣術は評判となって、大名屋敷などにも出稽古したため、収入も良くなり、中山安兵衛(堀部安兵衛)は一軒家を購入したとあります。

そんな中、1694年に、友人の助太刀に、自らがの意思で出向いた「高田馬場の決闘」にて、相手3人を斬り倒します。
平和な時代に果たしあいだと、多くの見物人も押し寄せたこの決闘は、のちに評判となり、いつしか、江戸市中の瓦版(今で言う新聞)にて、中山安兵衛(堀部安兵衛)は「18人斬り」と数を大きく増して紹介され、ますます名声が高まりました。

そして、この話を知った300石の赤穂藩士・堀部金丸が中山安兵衛を養子に迎えたいと望みました。
中山安兵衛が堀部家の養子に入ると言う事は、中山家の長男ですから、中山家が断絶すると言う事になります。
そのため、断ったようですが、最終的には、中山姓のままで良いと、赤穂城の藩主・浅野内匠頭の許しも得たことから、堀部金丸の娘・ほりと結婚して、養子に入りました。
こうして1694年、中山安兵衛は赤穂藩士となった訳です。

1697年、養父・堀部金丸が隠居して家督を継ぐと、中山安兵衛は中山家を捨てて、堀部安兵衛と称しました。
なぜ、堀部姓に変えたかは、定かではありませんが、奥さんや養父のことを考え、優しい武人だったのかな?とも感じます。
赤穂藩では御使番、馬廻役として200石となりました。

そして、1701年、江戸城の松之大廊下にて、藩主・浅野内匠頭は、高家・吉良義央に刃傷に及びます。
浅野内匠頭は即日切腹となり、赤穂浅野家は改易(所領没収)と決まりました。

この時、江戸詰めだった堀部安兵衛は、奥田重盛、高田郡兵衛と共に赤穂城に戻って、国許の筆頭家老・大石内蔵助に、籠城もしくは吉良上野介への仇討ちを主張しています。

堀部安兵衛は、赤穂藩に来てからまだ5年ほどと新参者で、藩内では「外様」とみなされていましたが、江戸に潜伏すると、堀部安兵衛は江戸滞在浪士のリーダー格となりました。

堀部安兵衛

そして、1702年12月14日、江戸では雪が降る中、堀部安兵衛ら赤穂浪士四十七士は、本所・松阪の吉良家に討ち入りし、本懐を遂げるのです。
享年36の堀部安兵衛は、堀部武庸筆記と言う貴重な日記を残しています。

ちなみに、養父・堀部金丸(堀部弥兵衛)は赤穂浪士最年長として享年73です。
堀部家の名跡は、もう一人の養子だった堀部言真が熊本藩士となって継ぎました。

新発田城近くには、下記のように堀部安兵衛の銅像もあり、その眼差しは江戸の方角を向いています。

また、新発田市の庭園「清水園」には、堀部安兵衛の資料館も併設されています。



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赤穂四十七士

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮 (不参加・萱野重實)

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清水園 越後を代表する大名庭園と足軽長屋



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • たかだ
    • 2019年 3月 20日

    SP879408さま、ご指摘助かります。
    文字が間違っていることを確認致しまして、修正させて頂きましたこと、ご報告申しあげます。
    改めまして、ご指摘賜りましたこと、深く御礼を申し上げます。

    • SP879408
    • 2019年 3月 20日

    本文中の中村安兵衛(堀部安兵衛)とは、中山安兵衛の間違いではないでしょうか。

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