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陸奥亮子は旗本・金田蔀の長女として、1856年11月に江戸で生まれた。
母は妾だったようで、明治の初めに東京・新橋柏屋に奉公に出て、芸者の修行をしながら下働きを3年、12歳で半玉、そして17歳で芸妓となると、小鈴(小兼)の名で客前に出た。
新橋で板垣退助に愛された小清と並び、新橋の双美人と呼ばれる美貌で評判の名妓だったと言う。
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明治5年(1872年)2月、先妻・蓮子が亡くなった陸奥宗光に見初められ、明治5年5月、17歳の時に陸奥宗光の後妻となった。
花柳界に身を置きながらも、男嫌いという評判もあり、身持ちも堅かったようだが、陸奥にはひそかな恋心を抱いていたといわれる。
先妻が遺した長男・陸奥広吉と次男・陸奥潤吉、そして、明治6年に生まれた長女・陸奥清子(さやこ)の3人を育てた。
清子の名は、隅田川の近くにある清澄町が、名前の由来だと言う。
明治10年(1877年)には舅にあたる伊達宗広が死去。
明治11年(1878年)、政府転覆運動に荷担した疑いで夫・陸奥宗光が禁固5年の刑に処せられ、山形監獄に収監された。
陸奥亮子は、陸奥宗光の友人・津田家に身を寄せ、姑・津田政子の世話を受けて、子育てをしながら陸奥宗光の帰りを待った。
陸奥宗光は、獄中からたくさんの手紙を送っている。
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明治15年(1882年)、陸奥宗光が特赦にて出獄を許されると、翌明治16年(1883年)から伊藤博文の勧めを受けてヨーロッパに留学。
この外遊の間にも、陸奥亮子に宛てた手紙は50通を越えている。
明治19年(1886年)、陸奥宗光が日本に帰国すると政府に再び出仕した。
こうして、社交界入りした陸奥亮子は、岩倉具視の娘・戸田極子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれることとなる。
また、日本赤十字社正社員としても奉仕活動を行っている。
明治21年(1888年)、陸奥宗光が駐米公使となると、共に渡米。
アームトラックでワシントンに赴くと、アメリカでもその美貌と魅力、話術が評価されると第一等の貴婦人と謳われ「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称された。
日本に帰国後は、伊藤博文の夫人・伊藤梅子に頼まれて、慈善バザーなどを行い、慈恵医院の設立に協力している。
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陸奥宗光の死後は、伊藤博文より夫と祇園芸者との間に生まれた子・金田冬子の話を聞き、引き取って育てている。
金田冬子は陸奥亮子の死後、陸奥宗光の長男・陸奥広吉の養女として陸奥家に入ったが、30代で亡くなった。
写真うつりの良し悪しもあるでしょうが、上記の写真をみる限りは、明治初期の女性で一番の美女とも言えるのでしょう。
明治政府の偉人で、美人な芸子を妻にしている者は、結構多かったのも事実です。
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