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パリ万博とは
日本では幕末期である、1867年に開催されたパリ万国博覧会(パリばんこくはくらんかい、Expo 1867)は、フランスの首都・パリにて実施された国際博覧会です。
42ヶ国が参加したパリ万博は、1867年4月1日から10月31日までの約7ヶ月間に、約1500万人が来場し、大盛況となりました。
このパリ万博は、日本(江戸幕府)が当時、フランスと仲がよかったため、初めて参加した万国博覧会になり、日本パビリオンでは、江戸幕府、五代友厚が主導した薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展しました。
会場は、現在、エッフェル塔が建っている場所となります。
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江戸幕府からは、15代将軍・徳川慶喜の弟で、御三卿・清水家当主である徳川昭武(15歳)が使節団の団長のような形になり、責任者は、若年寄格・勘定奉行格・外国奉行を務めていた向山一履が務めました。
その他の団随行員は、徳川昭武の小姓らで構成され、渡航経験がある田辺太一、杉浦譲、保科俊太郎、栗本鋤雲など7名が警護役を務めました。
会計係は、幕臣になっていた御勘定格陸軍付調役の渋沢栄一で、随行医は高松凌雲、通訳は山内堤雲と、翻訳者として箕作麟祥です。
また、会津藩から海老名季昌・横山常守、佐賀藩の佐野常民、播磨山崎藩からは木村宗三、薩摩藩からは家老・岩下方平、唐津藩からも留学生が同行した模様です。
その他、世話掛であるフランス領事レオン・デュリー、英国公使館の通訳・シーボルトも、イギリス帰省のために同行しました。
そもそも、万国博覧会(ばんこくはくらんかい)とは、国家レベルで参加するイベント(催し物)で、最先端の産業や、伝統工芸などの成果を、世界に披露する場と言えます。
今では普通に我々が利用している「エレベーター」「電話」「電気自動車」など、最新の商品などが展示されたなど、新たなアイデアの創造発信の場となっています。
<パリ編 VFXメイキング>
パリ万国博覧会でエレベーターに乗って、屋上に到着した篤太夫と医師の高松凌雲。実はこんなふうに撮影していました。屋上の風を表現するために回した巨大扇風機の威力は、声を張らないとセリフが聞こえないほどでした。#青天を衝け#吉沢亮#細田善彦 #青天メイキング pic.twitter.com/UQiRrXMmA8
— 【公式】大河ドラマ「青天を衝け」 (@nhk_seiten) July 15, 2021
江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩としては、浮世絵、青銅器、磁器、焼酎などを展示し、輸出拡大を狙いました。
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民間人唯一の出品者である商人・清水卯三郎の一行は「茶室」を設けて、柳橋芸者(おすみ、おかね、おさと)を、今でいうコンパニオンとして登場させ、独楽(コマ)を回しを披露ししたようで、とても人気があったと伝わります。
また、展示品の芸術性も認められて、パリ万博で日本のパビリオンは、初参加ながら全体で64個しかない「最優秀賞」(グランプリ)を受賞し、世界への日本のアピールを、大成功に納めました。
こうして、日本は国家として世界に認められ、独特の芸術は「ジャポニスム」と呼ばれる動きが出たのです。
なお、薩摩藩の展示は、日本全体の30%程を締めたようです。
更に、幕府とは別に「日本薩摩琉球国太守政府」の名で出展していたため、薩摩側代理人モンブラン伯爵(ベルギー貴族)に、向山一履と田辺太一が抗議もしましたが、受け入れられることはありませんでした。
その1867年の日本では、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔らと、土佐の板垣退助、谷干城、毛利恭助、中岡慎太郎らが「討幕の密約」を結びました。
そして、パリ万博が終った頃、徳川慶喜は大政奉還を行っており、坂本龍馬も暗殺され、王政復古、そして戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)になっています。
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出展した豪華な品々は、日本に戻されることなく、パリの商人に売却されたため、実際に、どのような品々が出展されたのかは、よくわかっていません。
略称は「万博」(ばんばく)で、今度、日本では、2025年に、大阪万博が予定されています。
パリ万博・使節団
横浜からフランス郵船の汽船アルフェー号で香港に渡りました。
そして、香港でアンペラトリス号に乗り換え、サイゴン、シンガポール、セイロン、アラビア半島南端のアデンを経由してスエズに向かっています。
スエズからは陸路でカイロを経由してアレキサンドリアへ。
<注釈> スエズ運河は建設中だった
アレキサンドリア港からはサイド号に乗船し、地中海を横断し、マルセイユに到着したのは1867年4月3日のことでした。
パリに入ると、カプシンヌ街のガランドホテルにて滞在したようで、徳川昭武は、ナポレオン3世と謁見しています。
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パリ万博使節団の随行員・メンバー・同行者・参加者一行・名簿一覧
※順不同
徳川昭武 徳川慶喜の名代、14歳
向山一履 外国奉行(若年寄格)全権公使
保科正敬(保科俊太郎) 歩兵頭並
木村宗三 大御番格・砲兵差図役頭取勤方
栗本鋤雲 外国奉行
田辺太一 外国奉行支配組頭・公使館書記官
杉浦譲 外国奉行支配調役
渋沢栄一(渋沢篤太夫) 御勘定格・陸軍付調役
生島孫太郎 外国奉行支配調役並出役
日々野清作 外国奉行支配調役
杉浦愛蔵 外国奉行支配調役
高松凌雲 幕府・奥医師
山内堤雲(山内六三郎) 外国奉行支配通弁御用
山内文次郎 小十人格・砲兵差図役勤方
箕作麟祥(箕作貞一郎) 外国奉行支配翻訳御用頭取・御儒者次席
水戸藩
山高石見守 昭武守役・御小姓頭取
菊池平八郎 民部大輔殿小姓頭取
井坂泉太郎 民部大輔殿小姓頭取
服部潤次郎
皆川源吾
加治権三郎
大井六郎左衛門
三輪端蔵
清水卯三郎 浅草・瑞穂屋の商人
柳橋芸者 おさと・おかね・おすみ
レオン・デュリー フランス領事
アレクサンダー・フォン・シーボルト 英国公使館の通訳・案内係 (イギリスへの帰省も兼ねて)
※シーボルトの子
会津藩
海老名季昌 会津藩家老
横山常守
※パリで、山川浩、田中茂手記と合流
播磨・山崎藩
木村宗三
佐賀藩
佐野常民
薩摩藩 (日本薩摩琉球国太守政府)
岩下方平(岩下佐治右衛門) 使節団長兼博覧会御用 薩摩藩・家老
市来政清 側役格
岩下方美
野村宗七
渋谷彦助
蓑田新平
斎藤健次郎 秘書
堀壮十郎 秘書
ほか
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・徳川慶喜(一橋慶喜)の解説 徳川家最後の征夷大将軍 その人柄と評価は?
・渋沢栄一(渋沢栄二郎)の解説 日本の実業界・社会福祉・教育などに大きく貢献した偉人
・徳川昭武の解説~ココアを飲んだ最初の日本人?
・杉浦譲(杉浦愛蔵)の解説~日本の郵便制度創設などに活躍
・栗本鋤雲の解説~医者から外国奉行そしてジャーナリストとして名を上げる
・2分でわかる「向山一履」の解説~パリ万国博覧会に出席した全権公使
・高松凌雲の解説~日本における赤十字運動の先駆者
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