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中野石翁(中野清茂)とは
中野清茂(なかの-きよしげ)は、徳川幕府の旗本である徒頭・中野清備(300石)の子として、江戸時代中期の1765年に生まれた。
頭脳明晰な物知りで、風流にも通じた中野清茂(中野播磨守清茂)の通称は、中野定之助と呼ばれる。
正室は矢部定賢の娘。継室に宮原義潔の娘を迎えたが離婚し、川田貞興の娘も側室にしていた模様。
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徳川幕府では1783年に御小納戸頭取、新番頭格と要職を務め、第11代将軍・徳川家斉の身の回りの用を勤める側近中の側近として仕えた。
祈祷僧・日啓の娘・お美代の美貌に目をとめると、屋敷にて奉公させて教育を行った。
そして、養女にするとお美代を大奥へ奉公させているが、こうして見事、徳川家斉の目に留まったお美代の方(専行院)は、将軍の側室に迎えられている。
このように中野清茂は地位を確立していき、最終的には9000石まで出世した。
他にも養女2人を江戸城大奥に送り込んでいる。
新番頭格の勤めを最後に隠居すると剃髪し、のち中野碩翁(中野石翁、なかの-せきおう)と称した。
屋敷は本所向島であったが、大変豪華で贅沢な暮らしは大名を勝るとも言われたと言う。
これは、隠居しても大御所となった徳川家斉の話し相手として、いつでも江戸城に登城する許しを与えられており、権力者への意見を述べられる立場であったことにある。
諸大名や幕臣、商人などはこぞって向島の別荘を詣でて、中野清茂には莫大な賄賂が集まった。
中野清茂の仲介を受ければ、願いごとは半ば叶ったも同然とまで言われたと言う。
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しかし、1841年に徳川家斉が死去して、12代将軍・徳川家慶が政治を行うようになると、老中・水野忠邦が天保の改革を開始し、収賄などを厳しく取り締まった。
そのため、中野清茂は登城禁止だけでなく、加増地没収・別邸取壊し処分となり、向島の屋敷に幽閉された。
その翌年の1842年5月12日に死去した。享年77。
戒名は高運院殿石翁日勇大居士。
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2016年 1月 25日
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2016年 2月 13日
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