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お登勢(おとせ)は、大津で旅館業・大本重兵衛の次女として1829年頃に生まれた。
※米問屋の娘ともあるが、2013年に大津・丸屋町で「升屋」と言う宿を経営した重助の次女で、兄弟が4人いたことも判明している。
18歳のとき、伏見南浜の船宿・寺田屋に嫁ぎ、第6代目・寺田屋伊助の妻となると一男二女をもうけた。
しかし、夫・寺田屋伊助は放蕩者であり、経営が悪化したので、代わりにお登勢が寺田屋を切り盛りし、姑の面倒も見た。
寺田屋の30石船は、他の船より人をたくさん使って漕いだので、速く到着すると評判が良かったと言う。
夫・伊助が35歳で亡くなったあとも、そのままお登勢は女将として寺田屋を続けた。
幕末の頃、寺田屋は薩摩藩の定宿となり、1862年4月23日には寺田屋騒動が起きて薩摩藩士同士が斬り合いとなる。(最初の寺田屋事件)
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その際、お登勢は3歳の次女を竈(かまど)に隠して帳場を守り、落命した薩摩藩士の葬儀も執り行っている。
事件後、 薩摩藩は乱闘によって破壊された寺田屋の修復と迷惑料の他に、藩士同士の斬り合いになったことの口止め料として、多額のお金を寺田屋に届け、お登勢はその資金で使用人らと畳や襖を交換し、営業を再開した。
お登勢の唯一の道楽は人の世話をすることであり、忙しい中、坂本龍馬ら尊皇攘夷派の志士たちを陰ながら支え、勝海舟らとも面識があった。
寺田屋をよく利用した坂本龍馬は、姉・乙女に充てた手紙で、お登勢の事を学問の知識も豊かな女性として高く評価している。
そんな坂本龍馬からお龍(おりょう)を託されると養女とし、お龍の母にも仕送りをしてあげていたと言う。
1866年1月24日、寺田屋に滞在していた坂本龍馬と三吉慎蔵が、伏見奉行らから襲撃される。
伏見奉行所や新選組は、寺田屋に尊王攘夷派の志士が出入りするのを警戒していたのだ。
この時、お風呂に入っていたお龍が異変に気づき、2階へ知らせたため、坂本龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで難を逃れたが、左手の指を負傷している。
しかし、これ以降は寺田屋も伏見奉行所からもにらまれ、薩摩側のお登勢は危険人物とされて、何度か入牢されそうになっている。
明治10年(1877年)9月7日に死去。享年48歳。
墓所は寺田屋に程近い伏見松林院。
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