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寺島宗則(てらしま-むねのり)
海外との交流が遮断された中、長崎の出島からオランダを介して入ってくる西洋の技術・文化・知識を蘭学と呼び、そういった知識を研究する人々を蘭学者といいます。
西洋の先進した技術を学ぶべく、蘭学塾には多くの若者が集いました。
明治に入り活躍した政治家にも蘭学の心得がある人物が多くいました。
今回はその中の一人、寺島宗則を紹介します。
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蘭学にどっぷりの幼少期
寺島宗則。
本名 松木弘安は天保3年(1832年)5月23日、薩摩国出水郷脇本(現在の鹿児島県阿久根市脇本)に郷士であった父・長野成宗の次男として生まれました。
名前が全然違いますが、寺島という苗字は後年になってから付けた名で、最初は、松木安右衛門と称し、宗則と名乗ったのも明治時代になってからでした。
5歳の時に蘭方医(オランダを介して伝わった西洋医学の医者)であった叔父・松木宗保の養子となり、宗保と共に長崎へ行きました。
ここから、寺島が外務卿となるまでの土台が作られていきます。
寺島宗則は長崎にいる間、蘭通詞(オランダ語の通訳者)から本格的にオランダ語や文法を学びました。
15歳の頃には藩から江戸遊学を命じられ、本格的に蘭学を学びます。
この頃にはオランダ語をマスターしており、オランダ語の辞書を筆写し、西洋の理学書を解読と校正をしています。
また、和親条約の締結により、アメリカとイギリスの存在が身近になったため、英語の必要性を感じて独学で勉強を始めました。
溢れる才能と知識を活かした活躍
寺島が22歳であった嘉永6年(1853)、米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航しました。所謂、ペリー来航です。
幕府は翌年に日米和親条約を締結。同じくイギリス、ロシア、オランダとも条約を締結し、215年続いた鎖国政策が終わりました。
日本は国際秩序の中に、無理やり組み込まれることとなったのです。
これを受けた幕府は、西洋の情勢・技術・文化を知るために蕃書調所という洋学の研究・教育所を江戸に開設します。
島津斉興に代わり、薩摩藩主となった島津斉彬に伴って江戸にいた寺島は蘭学に精通していたことから蕃書調所の教授に抜擢され、オランダ語を教えていました。
島津斉彬の帰藩に伴い鹿児島に帰ると、今度は薩摩藩が着手していた洋式製造工場群(集成館事業)で当時の日本では珍しかったガス灯や写真、電信の研究事業に没頭します。
ここが寺島のスゴイ所で、これらの研究をなんと1年で成功させているのです。
寺島宗則は明治になってから「外交問題に取り組むには、政府中央と綿密に連絡を取り合うことが必要である。」と主張し、そのために電信の必要を説きました。
政府から電信架設の工事の許可が下りると、工事責任者として工事を着工させます。
これが日本で最初の電信事業であったため、寺島は後年、「日本電気通信の父」と呼ばれるようになりました。
28歳で再び江戸に行くと、幕府の外国奉行の翻訳方に命じられました。外国奉行は安政5年(1854年)の日米修好通商条約に締結に際して、創設された役職で、それまで日本になかった外交を担当していました。
今でいう外務省に当たる役職です。寺島は横浜に勤めることになり、そこで外交文書の翻訳に努めました。
オランダ語や西洋の知識、技術、そして独学で始めた英語を武器に、寺島は外交の分野で目覚ましい活躍を果たしますが、ここまでで海外渡航は一度もしていませんでした。
しかし文久元年(1861)、幕府が派遣した文久遣欧使節団の随員に抜擢されます。
長く西洋の勉強をしてきた宗則は30歳にして遂に、ヨーロッパへの渡航を果たしたのでした。
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明治政府の外交官
明治維新により、政権が幕府から薩長土肥に移ると、寺島も政府の要職に就いていきます。
外国御用掛や外国事務掛、外国事務掛など、いずれも外交に関わる役職でした。
明治2年(1869年)に外務省が創設されると、寺島は外務大輔という外務省のNo.2に命じられます。
しかし初代外務卿である沢宣嘉は複雑な外交駆け引きが苦手だったようで、実務は寺島が担当していました。
寺島宗則が外務大輔に就任した4年後、明治六年の政変が起こります。
政府内での論争に敗れた政治家達が下野した出来事ですが、ここで第3代外務卿であった副島種臣も下野しています。
翌日には空いてしまった各省の長官が任命されていますが、外務卿に任命されたのが寺島でした。
明治6年(1873年)、寺島は第4代外務卿に就任。42歳の時のことでした。
この頃、政府は幕末に幕府が西欧列強と締結してしまった不平等条約の改正に乗り出していました。その使命を一身に受けたのが、外務卿である寺島でした。
不平等条約といえば、「関税自主権の欠如」と「領事裁判権」
寺島は関税自主権の欠如が国家の多大な損害になるとし、関税自主権の回復に着手しました。
各国の駐日公使に条約改正交渉を開始することをアナウンスすると、アメリカ公使のビンガムが好意的な態度を示したため、アメリカとの交渉を開始。アメリカとの関税自主権回復に関する約書調印に成功しました。
幸先の良いスタートを切ったかに思われた寺島外交でしたが、条約改正にイギリス・フランス・ドイツが拒否し、その後の交渉は難航しました。
加えて、ハートレー事件(イギリス商人ジョン・ハートレーが日本にアヘンを密輸入していた事件)の判決に英国領事裁判所はハートレーに無罪判決を言い渡しました。
この判決に国民は憤慨。寺島は関税自主権の回復に執着していたこと反省しました。
そして、不適任であるという理由で明治12年(1879)、外務卿を辞任しました。
その後は文部卿や立法機関である元老院の議長、天皇の諮問機関である枢密院の副議長などを歴任しました。
外務卿を辞任したものの、外交から離れることはなく、駐米日本公使に任じられ、約1年半アメリカにいたこともあった他、条約改正委員会の委員にも抜擢されました。
そして明治26年(1893年)、寺島宗則は62歳の生涯に幕を下ろします。
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寺島宗則は60歳の時に肺を病みますが、病床でも条約改正に関する意見書を外務省に度々提出しています。
最期まで日本の未来を想い続けた人生でした。
(寄稿)中みうな
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コメント
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条約改正交渉を担当した人物として名前が出てくる程度で、彼の人生については全く知らなかったので、興味深く読んだ
薩摩藩士であること、元は松木弘安と名乗り、日本の電機通信の父と呼ばれるなど知らないことばかり。
読んでいて反応したのは、溢れる才能と知識を活かした活躍1行目、米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーという表記。通常は単にペリーと書いてあるものが多い。幕末に来日した外国人は、アーネスト・サトウを除けは名前だけしか書かれていない。シーボルト(フィリップ・フランツ・バンタザール・フォン・シーボルト)を筆頭にして、プチャーチン・ヒュースケン・リチャードソンなど、フルネームではとても覚えられない。驚いたのは、文中に登場するビンガム。ジョン・ビンガムだけで9名もいる。ジョン・アーマー・ビンガムがフルネームである。
10行目に、様式製造工場群とあるが、洋式の誤りであると思う。