月照とは~尊皇攘夷派の僧侶である月照はなぜ錦江湾で入水自殺したのか?




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月照(げっしょう)は1813年に大坂の町医者の長男として生まれました。俗名は玉井忍向。

1827年(文政10年)、叔父・蔵海の知人を頼り、京都清水寺成就院に入って僧侶となりました。

そして1835年(天保6年)に成就院(京都清水寺・成就院)の住職となっています。
名は宗久、忍介、忍鎧、久丸とも言います。号は中将房、無隠庵などです。


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なお、月照は、尊皇攘夷を唱えると、寺を弟に譲って、攘夷活動を始め、吉田松陰梅田雲浜だけでなく京都の公家とも親しくします。
そのため、月照は薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)と、近衛忠煕を介して親交を持つようになりました。

そして、徳川家定の将軍継嗣問題では、一橋派に協力したため、大老になった井伊直弼から危険人物と見なされました。

1858年8月、井伊大老による安政の大獄が始まり、西郷吉之助(西郷隆盛)が尊敬する島津斉彬は兵を出そうとしました。

しかし、島津斉彬が急死し、殉死しようとした西郷吉之助に対して、月照は、死なずに島津斉彬の遺志を継ぎべきだと諭しています。

梅田雲浜が捕縛され、尊攘派が京にいるのは危険となり、近衛家が西郷隆盛に月照を保護するよう依頼します。

こうして、西郷隆盛と月照は、一緒に京都を脱出。
筑前浪人の勤皇志士・平野国臣に伴われて月照は海路、薩摩藩へと逃れました。
しかし、薩摩藩では島津久光が実権を取り戻しており、幕府の追及を恐れた薩摩藩は月照らを東目(日向国)へ追放することに決します。

日向には幕府の捕り方がいますので、これはすなわち「死」を意味します。
また、国境で月照を殺害するよう、西郷吉之助は命じられていたとも言われます。

そして、鹿児島から屋形船で送られる途中、1859年11月16日未明、満月の光が錦江湾に注ぐ中、三船沖にて西郷隆盛と月照は抱き合って、船先から入水自殺を図りました。

ドボンと大きな水音を聞いた平野国臣らが、飛び込んで救助したとも、船をぐるぐる回していたところ、2人が浮かび上がってきたとも言います。

冷たい海で冷え切り、息もしていない2人は、近くの花倉の浜に連れて行かれ、漁師の家にかつぎ込まれました。
下記は、西郷隆盛蘇生の家です。

西郷隆盛蘇生の家

しかし、西郷隆盛(30歳)は水を吐き出して、かろうじて蘇生しましたが、月照の体は冷たいままであったと言います。

月照。享年46。

辞世の句は下記のとおりです。

大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも

月照の菩提は、西郷隆盛の菩提寺である鹿児島・南洲寺に葬られました。

南州寺・月照上人の墓

鹿児島市立松原小学校の斜め右に南州寺があります。

南州寺

その南州寺の山門をくぐった、すぐ右手に月照上人の墓がありました。

月照の墓

一命を取り留めた西郷隆盛のことは、薩摩藩は一緒に死亡したとして存在を隠します。
そのために、西郷隆盛は奄美大島へ送られ、約3年を過ごすことになったのです。
ひとりだけ生き残った西郷は、自らを「土中の死骨」と呼び、生涯恥じたと言います。

南州寺への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点となります。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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