両国の歴史と成り立ち 江戸を大切にする街・赤穂浪士や勝海舟ゆかりの地

両国



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両国の成り立ち

江戸開府当初は、まだ未開だった両国が地名として定着したのは、万治2年(1659年)隅田川に二番目の橋が架けられた以降のこととなる。
江戸幕府は、防衛上の理由から隅田川の架橋を認めなかったが、明暦3年(1657年)の明暦の大火によって、10万人ともいわれる江戸市民の多くが、逃げ場を失っての焼死であったことを受け、千住大橋に次ぐ隅田川への架橋を決断した。
隅田川は武蔵と下総の境界という位置付けで、その二つの国に架かる橋であったため両国橋と呼ばれ、橋にちなんだ周辺が両国という名がつき、それが定着していった。
現在の両国は橋の東側を指すが、かつては橋の西側を主に両国と呼び、橋の東側を向両国という呼び方をした。
両国橋が架けられると、西側に火除け地である広小路が設けられ、そこに群がる江戸市民の盛り場なって発展するとともに、東側も本所、深川が江戸に編入され収容能力も格段に増加するなど、両国橋は両国だけでなく江戸全体の成長を担ったといえる。



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回向院と勧進相撲

回向院は浄土宗の寺院で、山号は諸宗山、創建は明暦3年(1657年)、無縁寺ともいう。
四代将軍徳川家綱の命により、明暦の大火の犠牲者をこの地で供養したのが始まりで、無縁寺の名の通り、災害などの横死者の無縁仏を創建当初から埋葬してきた寺院である。
また、家綱の愛馬をここで供養したことに由来すると思われるが、動物を慰霊するという伝統があり、「オットセイ供養塔」や「猫塚」などの史跡から、現代のペットの墓や慰霊碑に至るまで多数あり、創建時から本所の回向院として崇敬を集めた。
両国の代名詞といえば大相撲であろう。
回向院は江戸時代から勧進相撲の場所として知られる。
勧進相撲は、寺社の修繕の資金集めのための興行相撲で、天保4年(1833年)には、回向院が定場所となり、谷風や雷電などの人気力士が庶民を熱狂させた。
現代の国技館での大相撲は、この回向院での勧進相撲の定着があったからといってもよい。

赤穂浪士が本懐を遂げた本所松坂町

現在の両国にある本所松坂町公園(墨田区両国3-13-9)がある一帯は、赤穂事件(あこうじけん)の吉良上野介(きら-こうずけのすけ)の屋敷があったところであり、歴史的事件の現場となった場所である。

吉良上野介屋敷跡

浪士達は、討ち入りが決行されるまで、隅田川をどれだけ渡って行き来したのだろう。
この辺りだけでも、浪士達に関する逸話は多い。
前原伊助(まえはら-いすけ)が吉良邸裏門の近くで米屋を営み邸内の様子を探った他、杉野十平次(すぎの-じゅうへいじ)と俵星玄蕃(たわらぼし-げんば)との逸話は、昭和の歌謡浪曲にも歌われた。
そして、大高源吾(おおたか-げんご)と宝井其角(たからい-きかく)の両国橋の別れなどの逸話は数多いのだが、残念ながら脚色がほとんどのようだ。
そういった脚色の部分が、史実よりも色あせない所が忠臣蔵の現代に支持される理由でもある。

両国花火大会の歴史

現在盛大に行われている隅田川花火大会は享保年間、川開きの初日に花火が打ち上げられたのが起源である。
八代将軍徳川吉宗は、享保18年(1733年)川開きに際して享保の大飢饉での犠牲者を弔うとともに、また悪病退散を祈願する目的で川施餓鬼(かわせがき)と水神祭を併せて行い、両国橋周辺の料亭に花火を上げさせた。
享保の大飢饉では、冷夏や害虫による米の不作で、多数の餓死者が出たのはもちろんだが、米価高騰による打ちこわしが起こったことでも知られる。
享保の改革は、幕府財政の好転化の裏で農民に負担を強いた改革でもある。
吉宗の頭の中に、庶民に対するガス抜きをする意図があったかどうかはわからないが、なんとも吉宗らしい気がするし、吉宗の功績のひとつであったことは間違いない。

両国と葛飾北斎

葛飾北斎(かつしか-ほくさい)は、本所割下水に生まれ90歳で亡くなるまでの間に、多くをこの両国で過ごした。
北斎といえば、生涯93回の引っ越しをしてることでも知られ、ものぐさな性格から家がゴミで埋まるたび新居へと引っ越しを繰り返した。
北斎は、三女のお栄(葛飾応為)と暮らして、二人で絵を描いていたが娘がいながら、ということは、お栄も同じタイプの人間だったに違いない。
一方で北斎は、妙見信仰など信仰は熱心な人物であったようである。
妙見菩薩は北極星を神格化したものであり、道教上はこの星に祈れば長寿がもたらされると信じられてきた。
亡くなる間際には、「あと10年、いやあと5年生きれば、自分の芸術は完成した」と遺している。
このことから北斎自身、長く生きることも絵に対する追求のひとつであったに違いない。

勝海舟生誕の地

勝海舟(かつ-かいしゅう)は、本所亀沢町に生まれ、赤坂に移るまではこの本所界隈で過ごしている。
勝家は、無役の旗本で貧乏だったために、海舟も政治の表舞台に立つまでは非常に貧しい生活を経験した人物であった。
本来、家柄としては表舞台に立てないはずだった海舟が、なぜ日本の行く末を左右する大事な役目を担えたのかと考えた時、やはり若い頃の本所での人生経験があったからなのだろうと想像する。
海舟の下積み時代は、とにかく修行に明け暮れた。
親戚の男谷精一郎に剣術を学び、続いて10歳の頃に島田虎之助の道場に入門し、同時に虎之助の勧めで、向島の弘福寺で禅を学んだ。
そして、夜には寝る間を惜しむかのように牛嶋神社で剣術の修行に打ち込み、21歳の頃に直心影流の免許皆伝となっている。
その後の海舟は、剣術以外に兵学、蘭学を志すため赤坂へ移って行く。
海舟は、晩年の「氷川清話」の中で「座禅と剣術がおれの土台となった」と言っている。



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表向きの交渉を任されてからの海舟は、裏切り者と呼ばれ命を狙われることもあったが、それでも一歩も引かず成し遂げた偉業とその胆力は、下積みで培われた賜物と言っても間違いなさそうだ。
両国公園内に勝海舟生誕の地碑が静かに立っている。(墨田区両国4-25-3)

(寄稿)浅原

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