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関寛斎(せき-かんせい)は、幕末から明治にかけての蘭方医です。
生まれは幕末の文政13年(1830年)で、上総・東中(千葉県東金市)の農家(吉井家)の子でした。
儒家・関俊輔の養子になると、佐倉・順天堂にて佐藤泰然から蘭医学を学びます。
そして、銚子にて医者を開業したのは、26歳の時でした。
のち、豪商・濱口梧陵より旅の資金援助を得て、長崎に向かうと、オランダ人医師のヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事し、最新の西洋医学を学びました。
そして、徳島藩主・蜂須賀斉裕から招かれると、徳島藩の典医になっています。
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戊辰戦争の際には、官軍側の医者として帯同し、野戦病院である奥羽出張病院長となっていますが、幕府軍の負傷者も手当てするなど、敵味方関係なく治療に当たったと言います。
その後、海軍病院にて勤務し、山梨県立病院第2代院長としても活躍しています。
「医をもって人を救い、世を救う」「患者に上下はない」を信条とした関寛斎は、その後、徳島の東御殿跡にて開業医となり「ゲタばきの名医」と呼ばれたそうです。
しかし、転機が訪れます。
明治35年(1902年)、72歳のとき、関寛斎は、札幌農学校に進学した息子に乞われて、徳島から北海道に渡り、陸別町斗満(とまむ)の開拓事業に財産のすべてを使いました。
そして、広大な関牧場を開くと、土地を開放して、自作農を志しました。
明治43年には、友人の徳富蘆花が、関農場を訪ねて、後に著書「みみずのたはごと」を出版しています。
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しかし、冷害などにもあり、作物が育たず、苦労します。
また、仲が悪かった長男・関生三(せいぞう)を廃嫡したことから、その子が財産分与を求めて訴訟を起こした対立などもあり、大正元年(1912年)、服毒自殺しました。享年82。
下記は、陸別の国史跡「ユクエピラチャシ」にある、関寛斎を称える石碑のようです。
陸別町には、他にも、関寛斎資料館があります。
・蘭方医(らんぽうい)の解説
・杉田玄白の解説 解体新書~解剖学の功績やエピソード
・前野良沢と妻子は?~解体新書の中心翻訳者
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