加賀正太郎 大阪の実業家で竹鶴政孝のニッカウヰスキー創業筆頭株主

加賀正太郎は1888年(明治21年)1月17日に大阪市東区今橋2丁目で生まれた。

実家は大阪船場の商家「富商加賀商店」で江戸時代から両替商を営んでおり、明治に入ると証券業にも参入していた。
東京高等商業(現在の一橋大)で学ぶと、22歳の時にヨーロッパに遊学。 ロンドンの日英博覧会を見学すると、アルプスのユングフラウ(標高4158m)には、日本人で初めて登頂している。
イギリスでは英国王立の植物園であるキュー・ガーデンでなどで蘭栽培を見学し、園芸にも深い関心を持つようになった。

そして11年ぶりに、1911年(明治44年)に日本に戻ると、恵まれた経済力と卓越した才能を発揮して、加賀証券の社長となった他、他には山林経営・土地開発・ゴルフ場設計・ラン栽培などで手腕を発揮した他、ヨーロッパの登山用具などを日本にもたらしてもいる。
そして、1911年6月、ウィンザー城からの眺めに似た情景が望めるとして、山崎・天王山の中腹に高大な土地を購入し、1917年までに別荘を建築。

当時、珍しい鉄筋コンクリート製にも拘わらず、チューダー様式の外観で、ハーフティンバー工法風の木の柱などが外壁にある建物となっており、ヨーロッパでの経験を活かし加賀正太郎が自ら家具や道路に至るまで設計して建てた。
山荘を設計するにあたり、庭も山荘の大切な要素と加賀正太郎は考え「悠々居」と呼んでいた山荘本館の下には3つの池「琵琶の池」「一の池」「二の池」を配して、庭と山麓に融け込まさせたと言い、工事中には夏目漱石も見学に訪れている。
また、蘭の本格的な栽培も開始し、山荘内に約1万株の温室を作ると、人工交配による新種が1140種という成果も生み出している。

蘭も咲き乱れる山荘には、当初は週末だけ訪れていたが、その後、増築して常時居住するようになる。
この建物は、紆余曲折あったが、1996年からはアサヒビール大山崎山荘美術館として公開されており、誰でも訪れる事ができる。

マッサンこと竹鶴政孝がスコットランドから帰国した際、帝塚山にアメリカ風で洋式トイレが備わる洋風高級賃貸物件を借りて住んだ(NHKドラマでの創作とは異なる)が、その時の大家である芝川又四郎が、この加賀正太郎社長と須磨の別荘が隣どおしだった事もあり、同じヨーロッパに渡航したことがある竹鶴政孝が紹介されており、加賀正太郎と竹鶴政孝の2人は面識があった。

1924年(大正13年)から、マッサンこと竹鶴政孝が寿屋(現在のサントリー)の鳥井信治郎社長から請われて、山崎にウイスキー国産化の工場を新設すると、竹鶴政孝は工場長として山崎に住む事となり、偶然にも竹鶴政孝と加賀正太郎の住まいは近い間柄となり、親交するようになった。
竹鶴政孝の妻・リタは、加賀正太郎の山荘に通い、加賀正太郎の妻・加賀千代子に「英会話」を教えたと言う。

やがて、本物のスコッチウイスキー製造に拘りたい竹鶴政孝が、北海道の余市にウイスキー工場を作る計画を知った加賀正太郎は、資金面で支援して出資金の70%を負担して筆頭株主になった。
そして、1934年(昭和9年)に、大日本果汁(株)が設立された。のちの「ニッカウヰスキー」である。
ニッカの社内で加賀正太郎は「御主人様」と呼ばれていたそうだ。



ゴルフもうまく、茨木カンツリークラブのコースチェアマンとして活躍した加賀正太郎も、晩年は病を患った他、太平洋戦争の影響で事業も衰退した。
そのような経緯もあり、知己のアサヒビール社長・山本為三郎に、ニッカウヰスキー株のほとんどを譲り渡し、昭和29年8月8日に死去した。喉頭ガン。66歳。

1936年(昭和11年)に紺綬褒章受章。日本山岳会名誉会員。
著作に「蘭花譜」(自費出版)などがある。

マッサンこと竹鶴政孝とリタ夫人に関してはこちら
夏目漱石~エリートの地位を捨て小説家になった?

 

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