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小村壽太郎(こむら-じゅたろう)は、幕末の1855年に飫肥城の城下にて生まれました。
ペリー提督が浦賀に来航したのは1853年ですので、その2年後と言う幕末の激動の時代です。
上記の姓名は旧字体であるため、ここからは小村寿太郎と新字体にて記載させて頂きます。
飫肥藩の下級藩士(家禄18石)と言う小村寛平と梅子の長男でしたが、父は町別当と言う、庄屋のような役職であったため、子供の頃から商業に接していたようです。
また、飫肥藩を訪れた来客は、まず小村家の屋敷内にある客屋(きゃくや)に宿泊したため、精密な日本地図を作った伊能忠敬も、小村家に泊まっています。
このように、経済面に明るく、また藩外の情報も早く入ると言う家で、小村寿太郎は育ちました。
下記は飫肥城の近くにある小村寿太郎の生家(復元)です。
体が小さく病弱だった小村寿太郎ですが、藩校・振徳堂(しんとくどう)に入学すると8年間無欠席で積極的に学び、人一倍努力して勉強しました。
優秀な若者となった小村寿太郎ですが、振徳堂を卒業した明治2年に版籍奉還が行われます。
そして、藩費によって長崎への遊学が許されて英語を学びます。
14歳の小村寿太郎は外国人を見つけては、英語で話しかけて覚えたと言います。
そして、15歳のときには、大学南校(東京大学)に第1回の貢進生として入学することになりました。
貢進生(こうしんせい)と言うのは、1870年(明治3年)に各藩からの推薦を受けた若者が、大学南校に入学した生徒のことを言います。
そして、もっと英語を学びたい小村寿太郎は、5人の学友と留学運動を起こして、明治政府に建議書などを送りました。
こうして、11名が選ばれて、第1回文部省留学生としてアメリカのハーバード大学法学部へと留学を果たします。
大変、記憶力が良かったようで、論文も英語ですべて暗記していたと言います。
そして、明治10年に卒業すると、弁護士事務所に入って法律を学びました。
日本に帰国するとは司法省に入省し、明治14年には、朝比奈マチと結婚しています。
その後、大審院判事となりますが、英語力を買われて1884年に外務省に移りました。
ただし、1886年(明治19年)、父・小村寛平が事業に失敗して、小村家は破産し、多くの借金を背負うことになりました。
よく、ドラマなどに登場する小村寿太郎は、薄汚れた燕尾服を着るなど、貧乏風になる由縁です。
なお、伊藤博文内閣にて外務大臣をしていた陸奥宗光に認められ、1893年には清国代理公使を務め、日清戦争での交渉を担当し実績を残しました。
身長も156cmと小柄だった小村寿太郎は「ねずみ公使」と外交団から呼ばれていたと言います。
閔妃(びんひ)事件の善後策にもあたり、その後、外務次官、1898年には駐米公使、そして駐露公使と歴任します。
1900年(明治33年)の義和団の乱では、講和会議の全権として処理したほか、1902年には、世界最強のイギリスと日英同盟を締結することに成功しました。
1904年(明治37年)に日露戦争となると、アメリカのルーズベルト大統領が仲介した際に、外務大臣の小村寿太郎は講和首席全権として、ポーツマス市に赴きます。
そして、日露講和条約を締結したこのポーツマス会議にて、ポーツマス条約が結ばれるに至ったのです。
ポーツマス条約
講和内容は概ね下記のとおりです。
日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
日本とロシアの軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を「永久」に日本へ譲渡する。
ロシアは東清鉄道の内、旅順~長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
租借権(そしゃくけん)の譲渡と言うのは、朝鮮がロシアに貸していた領土権利を日本に譲ったと言うことになります。
日露戦争では日本はもうお金がなく、戦争継続できないと言う事情もあり、和平に応じた訳ですが、小村寿太郎は、お金が欲しくてロシアと戦争したのではないとして、賠償金(ばいしょうきん)を放棄した講和条約を結んだことに、世界各国は評価しました。
しかし、大きな犠牲と戦費負担を強いられていた日本国民はこの外交を「弱腰」だと批判します。
小村寿太郎もこの条約調印は、ギリギリの苦渋の決断だったようで、ホテルでは泣いている声が聞こえたと言います。
しかし、帰国すると右翼団体から罵声を浴びせられ、泣き崩れた小村は両脇から伊藤博文と山縣有朋に抱えられて、首相官邸へ入りました。
そして、日比谷焼討事件や、小村邸への投石などにて精神的に追い詰められた、妻・マチは、家族と別居しています。
1906年、小村寿太郎(51歳)は外務大臣を辞任し、枢密顧問官、英国大使となっています。
1907年(明治40年)9月21日、小村寿太郎は伯爵となり、1908年には再び桂内閣にて外務大臣になりました。
このとき、井伊直弼が締結した日米修好通商条約を始め不平等だった条約改正に乗り出し、日米通商航海条約調印、日英通商航海条約調印、日独通商航海条約調印、日仏通商航海条約調印を果たして関税自主権を獲得します。
また、1910年の韓国併合にも外交手腕を発揮しました。
こうして、明治44年、日本は真の独立国として認められるようになったのです。
滅私奉公だった小村寿太郎は、結核を患い、外務大臣を辞職した3ヶ月後、静養先の葉山にて、1911年11月26日に没しました。享年56。
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大役を果たした小村寿太郎は、宮崎の県立宮崎中学校(宮崎大宮高校)にて1度講演を行っています。
諸君は正直であれ。正直と言うことは何より大切である。
学生を前に諭すように非常に短い、これだけの話しをして、小村寿太郎は演壇を降りました。
明治に困難な外交を見事に乗り切った小村寿太郎が、もし、いなかったらと思うと、ゾッとします。
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