小笠原長行【藩主ではないのに幕府老中にまでなったイケメン?】




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小笠原長行(おがさわら-ながみち)は、唐津藩主・小笠原長昌の長男として1822年5月11日に、唐津城・二の丸で生まれた。幼名は行若・敬七郎。
母は松倉氏の娘。

ちなみにこの小笠原家は松本藩主・小笠原秀政の3男からの系統である。
1817年に棚倉藩から唐津6万石に転封されたばかりである中、小笠原長昌が1823年に江戸藩邸にて死去した。
そのため、唐津藩は他藩から養嗣子として藩主を迎え、松本藩主・戸田光庸の長男・小笠原長国まで4代続いて養子が迎えられた。


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本来であれば家老が政務を取り仕切り、小笠原長行が藩主でもおかしくないのだが、元来、唐津藩と言うのは長崎貿易の特権が認められている代わりに、長崎で何か事件が発生した際には、長崎奉行を助けると言う重要な役割があったため、家老などの指揮は許されず、藩主が直接指揮を取る必要があるのだ。
それだけでなく、藩主の死に際して、幼君の相続を正直に幕府に届けると、17歳以下の者が藩主となった場合にはどこかへ転封となる時代でもあった。
唐津は20万石に相当する潤沢な収入があったため、財政難に苦しんでいた小笠原家の重臣らは非情な判断を行い、他家より養子を迎えて藩主とし、悲運にも幼少の小笠原長行は廃人だと届けられて、庶子として扱われる事となった。
しかし、幼い頃から聡明だった小笠原長行は、庶子と言う立場が幸いしたようで、1838年には江戸に出て儒学者・朝川善庵に師事し、藤田東湖、安井息軒、高島秋帆などから博学才識を広く吸収する。
このように井伊直弼が、不遇時代にも文武の道に励んだのと同様に、勉学にも励んだのだ。

ペリー提督来航時に老中・阿部正弘が広く意見を公募すると、小笠原長行は幕府に建白書を提出したが、この時、直接提出するのは、はばかり、水戸斉昭に託して提出していた。
しかし、水戸斉昭の後ろ盾もあり、埋もれた英才の存在が知られる事となる。

小笠原長行が34歳頃である1855年頃になると、当時の藩主・小笠原長国は、小笠原長行に藩の実権を譲り藩政改革を行なわせた。
しかしこれが、正統な跡継ぎである小笠原長行を支持する若殿派が、小笠原長国の大殿派に反発するキッカケとなり、藩内が分裂し派閥対立が発生することなり、藩主・小笠原長国は2歳年上の小笠原長行を養嗣子として迎えて、37歳で世子となった。
これで、幕府の公務にも着任することができるようになったのだ。

藩政に携わりその手腕を評価れさて名声を高めた小笠原長行は、図書頭と称し、1862年に世嗣の身分のまま、7月21日に徳川幕府の奏者番に着任すると、8月19日には若年寄に抜擢されて、9月11日には老中格へと昇進し、10月1日には外国御用掛とにり、まもなく老中にまでなった。
そして、前年までの安政の大獄による井伊直弼関係者の追罰も行っている。

藩主ではない世子のまま老中格となったのは、徳川幕府の長い歴史の中で初めての事であり、唐津藩から老中格となったのも、奏者番から僅か3ヶ月で老中格となったのも、老中格の者が外国御用掛になったのも初めてと言う人事であった。

将軍職後見・一橋慶喜と前後して、京にて参内も果たしているが、生麦事件が発生した際には、江戸が焦土と化すのを防ぎ早急に事態終結させるため、1863年5月9日、独断で賠償金10万ポンドの支払いをイギリス代理公使ニールに約束すると言う決断もしている。

横浜にてイギリスに賠償金を支払った翌日の5月10日、徳川慶喜が朝廷で攘夷決行を約束した期限であった為、小笠原長行は勅命に忠実に鎖港を通知。
長州藩は関門海峡を通過する外国船を砲撃した。



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そして、小笠原長行は江戸幕府が育成していた洋式軍隊1600名を引き連れて5月26日に軍艦5隻(蟠龍、朝陽、鯉魚門、イギリスの民間汽船エルギン号、ラージャー号)に乗り込み上京開始した。
しかし、小笠原長行のこの上京目的は賠償金支払いの事情説明とされているが、精鋭部隊を引き連れていた為クーデターを起こそうとしたとも、京都滞在中の徳川家茂尊王攘夷派から警護しようとしたとも言われている。
ただし、小笠原長行らが大阪から京の郊外・淀に入ると朝廷は恐れて将軍・徳川家茂に対して撤兵を強く要求したため、6月4日に老中首座・水野忠精が駆けつけ、6月5日には将軍・徳川家茂により入京禁止の命が下され、6月10日に小笠原長行は幕府の職を罷免された。

1864年、禁門の変のあと謹慎が解かれると壱岐守となり、1865年9月4日に再び老中格となり、さらに老中に再任となった。

1866年、第2次長州征討においては、小倉口の総督として指揮を執った。
しかし、熊本藩などの諸藩をまとめることができず連敗を重ね、将軍・徳川家茂の死の報を聞くと、ひそかに戦線離脱している。
この失態のため、10月には一時、老中を罷免されたが、徳川慶喜の強い意向によって11月になると再任されている。

その後、徳川慶喜の政権下においては、外交担当の老中として欧米公使との折衝に当たり、1867年6月には外国事務総裁となり、兵庫開港問題にも尽力した。

1868年、大政奉還のあと戊辰戦争が起こると、江戸城において徹底抗戦を主張した。
そして、江戸を脱出すると会津・仙台、そして榎本武揚の箱館(函館)まで転戦して新政府軍に対抗した。



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行動を共にした唐津藩士は、一族の小笠原胖之助(小笠原三好胖)、御使番の大野右仲(大野又七郎)らが土方歳三の部隊に加わっている。

明治2年春、官軍の蝦夷再攻撃が始まると、旧大名らの貴人は総裁・榎本武揚の意向によって戦地脱出となり、小笠原長行は4月25日にイギリス船で箱館を出ると、5月に仙台領・勝見浦と寒風沢を経て、備中松山藩の積立丸に乗り換えて、5月20日に浦賀へ入港した。
世間には横浜からアメリカに渡ったと思わせて、東京・湯島の妻恋付近にて、前場小五郎らに伴われ隠れ住んだと言う。

明治5年(1872年)、外国から戻ったと帰国届を提出し、7月に新政府に自首した。
しかし、榎本武揚も既に赦免の時期になっており、罪は問われず8月4日に許されている。

その後は病と称して、東京・駒込動坂の小邸にて隠棲し、一切世に出ていない。
明治9年(1876年)11月従五位、明治13年(1880年)6月、従四位に叙任されている。

明治24年(1891年)1月25日、駒込の自邸で死去。享年70。
辞世の句は「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」。



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最後まで譜代家臣として幕府に忠誠を誓った人生であった。



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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