過去の記事一覧

  • 明倫館とは?  長州藩の藩校

     明倫館は1718年(享保3年)、長州藩第6代藩主・毛利吉元が、萩城の三の丸追廻し筋に創建した長州藩(萩藩)の藩校で、敷地面積は940坪。  長州藩の明日に担う有能な人材を育成することを目的として、毛利家家臣の子弟…
  • 薩長同盟 (薩長盟約、薩長連合) とは? 約束内容は?

    薩長同盟とは 薩長同盟(さっちょうどうめい)は、江戸時代の幕末である1866年1月21日に、京都の薩摩藩士・小松帯刀邸にて締結された、薩摩藩と長州藩の政治的・軍事的密約同盟。 薩摩藩と長州藩は、幕末の京都にて…
  • 公爵 – 侯爵 – 伯爵 – 子爵 – 男爵とは?

    日本における爵位(しゃくい)は、徳川幕府を倒して、新政府を樹立させた明治時代に、天皇を元首に近代国家を目指す過程で、西欧各国に習って華族制度を創設。 そして、元公卿・元諸侯などと、国家功労者の家・戸主に公・侯・伯・子・…
  • 山縣大華 (山県大華) 長州藩の明倫館学頭

     1781年生まれの山縣大華(山県大華)は、正統の朱子学者で、長州藩の藩校・明倫館の学長(学頭)をしていた。  20歳前後の吉田松陰が明倫館の先生となると、当時80代の山縣大華の朱子学的見解と意見が分かれ、論争…
  • 間部詮勝  京で尊王攘夷派を弾圧した老中

     間部詮勝(まなべあきかつ)は、鯖江藩の第5代藩主・間部詮熙の五男として江戸の鯖江藩邸で、1804年2月19日に生まれた。幼名は鉞之進(えつのしん)、初め詮良と称した。  母は側室・永田氏の娘。  1814年…
  • 中川宇右衛門~長州藩俗論派の幹部

     中川宇右衛門(なかがわうえもん)は、1805年生まれの長州藩士。名は以徳。通称は登人。  用所役を務めると蔵元両人役、遠近方、国事用掛、矢倉頭人などを歴任。  椋梨藤太と共に保守派(俗論派)の中心人物で…
  • 萩城

    長州藩の勢力争い 改革派 (正義派・尊攘派・急進派・倒幕派)と保守派 (俗論派・重商派)

     幕末の長州藩では藩論が二分し、正義党と俗論党が内部抗争を繰り返していた。  そんな派閥のメンバーリストと、各派閥の他の呼び名と共に、まとめておきたい。 改革派(正義派・尊王尊攘派・急進派・倒幕派・勤王派) …
  • 井上馨 (志道聞多、井上聞多) 詳細版 明治維新の原動力となった長州藩の偉人

     井上馨(いのうえかおる)は、長州藩士・大組の井上光亨(井上五郎三郎、100石)の次男として、周防国湯田村(現山口市湯田温泉)にて1835年11月28日に生まれた。  幼名は井上勇吉。通称は長州藩主・毛利敬親から拝受し…

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  2. 大山格之助(大山綱良、大山正圓、大山角右衛門)は、1825年に薩摩藩士・樺山善助の次男として鹿児島城…

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