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山尾庸三(やまおようぞう)は長州藩士で村役人・山尾忠治郎の次男(3男とも?)として、周防国吉敷郡二島村(山口市秋穂二島)にて1837年10月8日に生まれた。幼名は富士太郎。
母は山尾末子。
父・山尾忠治郎は、萩に住む長州藩士・繁沢家の給領地を管理する庄屋で、繁沢家から多大な信頼を得ていたと言う。
山尾庸三は7歳の頃、自宅から3里離れた小郡(山口市)の寺子屋に通って学ぶと、10歳の時その才能を認められて、小郡役所の従者となった。
1849年には、13歳で繁沢家に仕えるようになると、歴史、漢詩、書など更に学問を究め、20歳の時には富海(防府市)から船で大坂へ行き、東海道を通って江戸へ留学した。
江戸では桂小五郎が塾頭を務めていた「練兵館」の門人となり、他の塾では洋式兵学などを学んだが、学費は父が工面して送っていたと言う。
この学費を届けた人物に大村益次郎がいる。
妻は岩瀬良応の娘・種子。
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1861年、箱館奉行所・武田斐三郎が幕府船・亀田丸でロシアの沿海州航海計画を立てると、山尾庸三は桂小五郎に頼み、小使い(雑用)として乗船。
この時、ロシアのニコライエフスクまでの往復であったが、これを機に他の外国にも行く夢を得た。
1862年、孝明天皇を廃位させると調査していると噂された開国派・塙忠宝が加藤甲次郎と共に暗殺される事件が起こったが、大正10年に、渋沢栄一が証言し、伊藤博文と山尾庸三が暗殺犯だったと明かしている。
1863年、繁沢家の家来から正式な長州藩士とにると、長州藩が秘密裏に海外留学させる5名に選ばれて、藩船・癸亥丸の船長・井上勝、井上馨、伊藤博文、遠藤謹助らとロンドンに留学し「長州五傑」と呼ばれ、最新の工学や英語などを学んだ。
長州藩による外国船砲撃を新聞で知ると、井上馨、伊藤博文は日本に帰国したが、遠藤謹助らは井上馨の説得を受けて、そのままイギリスに滞在を続けた。
1865年に薩摩藩が20万両と言う多額な予算で留学生15人(町田民部・畠山丈之助・村橋直衛・名越平馬・市来勘十郎・中村宗見・田中静洲・東郷愛之進・鮫島誠蔵・吉田己二・森金之丞・町田申四郎・町田清蔵・磯永彦輔・高見弥一)と視察員4人(新納刑部・松木弘安・五代才助・堀壮十郎)の計19人をイギリスに派遣。
薩摩藩士らは何年も前から長州の日本人がいると言う話を聞いて驚き、グラバー商会の世話役を通じて山尾庸三は面識を得た。
長州藩と薩摩藩は八月十八日の政変以来、犬猿の仲であったが、イギリスでは森有礼らと情報交換を行い、大変親しくなっている。
3年もイギリスにいるとさすがに留学費用も底をつき、グラスゴーで造船技術を学ぼうとしても、さすがに旅費もなかったと言うが、薩摩藩士に相談すると、藩の公金は提供できないが、小遣いから1人1ポンドを手渡され、合計16ポンド(10両)を得ると感謝している。
こうして、ロンドンから550km離れたグラスゴーに行くと、昼間はネイピア造船所の見習いとして働き、夜は夜間学校アンダーソンズ・カレッジで座学を受けたと言う。
しかし、そうこうしているうちに、日本では大政奉還が行われ、江戸城無血開城となり、長州藩より帰国命令が届いたため、井上勝と共に1868年(明治元年)に帰国した。
明治元年(1868年)11月19日に横浜港に入ると、東京にいる木戸孝允を訪ねている。
その後、山口に帰ると長州藩の仕事に復帰し、明治2年2月には三田尻の長州藩海軍局・教授方助役となり、8月には藩船修理の為、長崎へ船を回航もした。
明治3年3月末になると、新政府から出仕を求められ、伊藤博文のもとで民部省および大蔵省の役人として、横須賀製鉄所(横須賀造船所)の事務をし、横須賀造船所の再生に関与した。
また、この頃から意見書を多数政府に提出し、工業発展のため「工部省設立」を提唱すると、明治3年10月には工部省が新設され、山尾庸三は工部省に移っている。
そして、明治4年には長崎県が所有する製鉄所と造船所を、工部省の管轄(国営化)の交渉も担当し、長崎造船所に改められた。
今の日本には工業がほとんどないが、人材を育成すれば、彼らが工業を興すに違いないとして、工学教育の学校設立を働きかけ、明治4年9月には「盲唖教育」のための意見書も提出した。
これはイギリス留学中にグラスゴーの造船所で見たろうあ者が、指を動かして会話しているのに感動し、山尾庸三が日本でも実現したいと考えていたものであった。
その後、山尾庸三は、工部少輔(副次官)となり、鉄道、工業、鉱山開発の責任者として邁進。
明治維新後わずか5年となる明治5年(1872年)9月には、新橋~横浜間の鉄道が完成。
山尾庸三と井上勝が開業式に参加し、明治天皇を先導する形で共に列車に乗ったと言う。
明治6年10月、工部省の工学寮が開校した際に、イギリスのスコットランドから校長として招へいしたのは、山尾庸三がイギリスで学んだアンダーソンズ・カレッジの同窓生である25歳のヘンリー・ダイヤーであり、8名の教授や助手も同時に来日した。
校長の方針で、教師を始め衣食住までもすべて西洋式となり、6年制と言う念密な授業計画となり東京大学工学部の前身となった。
明治9年には工業デザインを学ぶ工部美術学校も設置している。
明治10年5月、京都で木戸孝允が倒れたと聞くと急ぎ訪ね、その遺言どおりに京都に霊山墓地を作った。
その後、皇室を始め、大くの寄付金が集まり明治13年には念願の訓盲院が開校。
また、新潟周辺の油田開発も提案し実現している。
しかし、この頃になると明治政府も支出が厳しくなっており、赤字が続いていた官営工場は次々と民間に払い下げされていったが、その結果、企業が努力して営利を得るため更に工業は発展したと言えよう。
明治14年に、工部省は新設された農商務省に統合され、山尾庸三は政府役人を辞して、参事院の議官として財務を担当した。
明治18年12月、49歳のときに伊藤博文内閣が発足すると、宮中顧問官と法制局長官に任命され、外務大臣・井上馨といったイギリス留学組3人で共に仕事をした。
明治31年(1898年)2月、61歳の山尾庸三はすべての職を辞したが、耳が遠くなったからだと説明している。
この年、日本聾唖協会が設立されると山尾庸三は初代総裁に就任。
大正5年(1916年)には、秋穂二島に一時帰郷したが、これが最後の故郷となった。
大正6年(1917年)12月21日、東京の自宅で永眠。享年81歳。
(参考) 山尾庸三の生涯
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