グラバー商会 トーマス・グラバーと妻ツル


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グラバーはイギリス・スコットランド出身の商人で、幕末期に日本に来日すると武器商人としても活躍した人物。

父はスコットランドの沿岸警備隊・1等航海士で、8人兄弟姉妹の5人目として、アバディーン近くの漁村にて1838年に生まれた。

グラバーは、アバディーンの羊毛製品製造会社の代理人として中国にわたり、1859年、21歳のとき上海に入ると「ジャーディン・マセソン商会」に入社。
そして、開港した直後の長崎に渡った。

1861年には「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として独立し「グラバー商会」として貿易業を営み、1862年にアーノルド商会を吸収。
この頃の記録では、グラバーの兄弟や親戚も長崎にいたことがわかっている。
1863年には長崎湾を見下ろす南山手の丘の上に「グラバー邸」を設けた。
25歳の時であった。グラバー邸は現存する日本最古の木造洋風建築として国指定の重要文化財となっている。

当初は日本の特産品であった生糸や茶の輸出を扱ったが、八月十八日の政変のあと、オールトやウォルシュ、シキュート、クニフレルなど米欧の貿易商人たちと競合しながら、西洋の武器を欲しがった薩摩藩・長州藩・土佐藩などを相手に、軍艦・武器・弾薬も輸入販売するなど、次第に一攫千金を狙うようになった。

そのため、グラバーとの取引した日本人は、亀山社中の坂本龍馬だけに留まらず、大村益次郎伊藤博文井上馨高杉晋作後藤象二郎らそうそうたる名が上がる。

また、薩摩藩から頼まれると、五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの極秘海外留学のため、イギリス渡航(密航)も手伝った。

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1865年3月17日には、日本で初めてとなる蒸気機関車(アイアン・デューク号)の試験走行を大浦海岸にて実施。

1866年には大規模な製茶工場を建設するなどし、1867年には、のちに長崎にて三菱造船所を手掛ける岩崎弥太郎とも交流した他、ロイズ保険や香港上海銀行、オリエンタル銀行の代理店でもあったグラバー商会は、上海や横浜にも支店を置き長崎最大の貿易商となった。
この頃には日本人従業員も数百人となっていたと言う。

1868年(明治元年)に入ると、肥前藩と共に高島炭鉱の開発に着手し、イギリスから資材を取り寄せ、長崎のグラバー邸から南にあたる小菅に造船所も建設した。

その後、新政府の造幣機械輸入も手掛けるなどしたが、大規模な内戦とはにらず武器の在庫を抱え、また江戸幕府が崩壊して諸藩からの資金回収が滞り、1870年(明治3年)に10万ドル(50万ドルとも?)の負債を抱えてグラバー商会は破産した。

グラバー本人は、その後も高島炭鉱の実質的経営者として日本に滞在。
1870年頃には、五代友厚の紹介で、芸者をしていたツルを妻に迎えている。
このグラバー・ツルは、プッチーニのオペラである「蝶々夫人」の蝶々さんのモデルとされる。

グラバー自身も在日外国人社会におけての人望は絶大であり、鹿鳴館の名誉セクレタリーにも推薦されるなど、明治日本の国際交流に大きく貢献した。

1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収したあと、日本人は石炭の国際取引にまだ経験が不足しており、グラバーは所長として経営を支えた。

1885年(明治18年)以降は、三菱財閥の相談役にも就任し、愛妻ツルと共に長崎から東京に移り住んだ。
また、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建を岩崎弥太郎に勧めると、後の麒麟麦酒(キリンホールディングス)の基礎を築いている。

1899年に妻・ツルが死去。

1908年(明治41年)には、明治維新の功績として、外国人としては異例の勳二等旭日重光章を受章。

1911年(明治44年)12月16日、腎臓炎でグラバーは他界した。73歳。

墓は長崎市内の坂本国際墓地にあり、ツルとともに埋葬されている。

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