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明倫館は1718年(享保3年)、長州藩第6代藩主・毛利吉元が、萩城の三の丸追廻し筋に創建した長州藩(萩藩)の藩校で、敷地面積は940坪。
長州藩の明日に担う有能な人材を育成することを目的として、毛利家家臣の子弟教育のために造られた藩校。
武士の跡取りらを学ばせ、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称された。
明倫館は士分と認められた者しか入学できず、町民・農民はもちろん、武士に仕えた卒(卒族)、軽輩と呼ばれた足軽・中間などの子も入学できなかった。
1849年(嘉永2年)、第14代藩主・毛利敬親が、藩政改革を行って拡大する為、萩城下江向へ移転した。(敷地15184坪、建物総坪数11328坪、練兵場3020坪)
宣聖殿と呼ばれた聖廟を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた主として学問習得のための建物、それも漢学中心の初等・高等の教育施設が配置され、東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、後方には水練池、北方には約3千坪の練兵場が設けられ、また、数多くの書物を納め図書館としても活用された。
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なお明倫館聖廟の建物は、現在北古萩町の海潮寺の本堂に移され、また南門は本願寺院の表門、観徳門は明倫小学校に現存している。(国の史跡)
1863年(文久3年)、幕末の動乱期に長州藩の藩庁が山口に移転すると、上田鳳陽が1815年(文化12年)に山口市中河原に開設していた私塾・山口講堂(後に山口講習堂)を山口明倫館と改名して、新たな藩校と定めた為、萩と山口の両方に明倫館ができた。
そして、入学条件が緩和され、卒族(足軽などの下士)も入学を許可され、約1000名以上もの生徒が学んだと言う。
責任者として明倫館総奉行職が設置され、加判役支配下となっていた。
なお、萩には吉田松陰で有名な「松下村塾」があるが、私塾で、のちに藩公認の私塾となった。
(参考) Wikipedia、萩市観光協会
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