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野村望東尼(のむらもとに、ぼうとうに)は、福岡藩士・浦野勝幸(浦野重右衛門勝幸)(300石)の娘(3女)で、1806年9月6日生まれ。幼名は「もと」(モト)。
17歳のとき最初の結婚をして20歳年上の郡利貫(500石)に嫁いだが、半年で離婚。
その後、1829年、24歳のとき、福岡藩士の馬廻役・野村清貫(野村新三郎清貫)(413石)と結婚した。
夫婦仲は良く、27歳のとき、夫と共に福岡の歌人・大隈言道に入門すると歌人としての才能が認められる。
夫の退職後には平尾山荘にて共に隠棲したが、1859年に夫が亡くなると剃髪して仏門に入った。
54歳のときである1861年、上京の旅に出て、大坂では大隈言道に再会。
そして、京都にて多難の時勢を直接目にし、憂国の情を抱いて帰国すると、平野國臣など幕末の志士たちとの交流が始まった。
その後、山荘(福岡市中央区平尾)にて、高杉晋作や月照、熊本藩士・入江八千兵衛、対馬藩士・平田大江、福岡藩士・加藤司書、平野国臣、中村円太、月形洗蔵、早川養敬など勤皇の志士を何度も匿るなどし、密会の場所としても提供した。
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1865年6月、福岡藩では尊攘派を弾圧することとなり、孫・野村助作と共に自宅に幽閉され、10月には玄界灘の姫島へ配流となった(乙丑の変)。
島民から食べ物の差し入れを受け、4畳半で荒格子だけの吹きさらしの環境は60歳の身に堪えたようだ。
1866年9月、病床の高杉晋作が指揮して救出作戦が行われ、福岡脱藩浪士・藤四郎、多田荘蔵らが姫島から救出すると、下関の豪商・白石正一郎宅に身を寄せ厚遇された。
そして、おうのと共に、高杉晋作を看病し、高杉晋作の正妻・高杉雅子が訪れると、雅子とおうのの緩衝役にもなったと言う。
死の床で高杉晋作が「おもしろきこともなき世をおもしろく」と詠じて力尽きた際に 「すみなすものはこころなりけり」と下の句を続けて読んだことは有名だ。
高杉晋作の死後は山口に移り住んだが、やがて、薩長同盟の軍艦が三田尻(防府市)に終結したのを聞き、防府に向かうと、防府天満宮にて7日間断食し戦勝を祈願した。
しかし、体を壊し床につき、大政奉還の報などを聞いた後となる、1867年11月6日に三田尻(防府市)で死去。62歳。
遺稿に向陵集、上京日記、姫島日記、防州日記などがある。
密会場所として提供していた山荘は現在「平尾山荘公園」となっている。
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