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毛利伊勢(毛利親彦、もうり-ちかひこ)は、長州藩の永代家老である阿川毛利家(7391石)の第14代目として1830年に生まれた。
父は毛利熙徳で、母は正室の毛利熈頼の娘。
通称は毛利山三郎、毛利主計、毛利伊勢。初名は毛利倫周。
阿川毛利家の初代・毛利元氏は、毛利元就の孫である。
1838年に父が死去すると家督を相続して阿川領主となった。
そして長州藩の加判役(家老)として藩主・毛利敬親に仕えると、偏諱を受けて毛利親倫と改名し、その後、毛利親彦と称した。
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1845年には阿川八幡宮を修復したことも伺える。
1847年には孝明天皇即位式の祝賀使を務めるなど、度々上京して毛利家の外交を担っている。
1862年、約7日間の遠慮の罪となっている。
1863年、隠居して家督を嫡男・毛利親経に譲ったが、禁門の変で長州藩が敗れて、1864年に藩内の保守派(俗論派)である椋梨藤太が政権を取ると、加判役に復帰して保守派として幕府に恭順謝罪の方針を取った。
1864年には藩主・毛利敬親の御前会議に出席し、井上聞多と激論を交わしている。
高杉晋作が功山寺挙兵すると、革新派に政権が変わり、毛利伊勢は更迭され、椋梨藤太は野山獄で斬首された。
1867年、嫡男の毛利親経(毛利寛)が病を理由に隠居。そのため、毛利伊勢が再家督し16代目となった。
1867年6月には奇兵隊の総督にも就任した。
明治6年(1873年)1月6日死去。享年44。
墓は萩市中津江にある。
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