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大河ドラマ「八重の桜」でも注目を浴びた、山本八重の最初の夫とされる川崎尚之助は、会津に来る前までは川崎正之助と言う漢字の名前だった。
川崎正之助(かわさきしょうのすけ)は出石藩(兵庫県)の藩医の子であるとされるが、町医者という説もある。
ただし、父親が医師であると言う証拠も見つかっておらず、出自については良くわからないと言うより、この川崎正之助は生涯に渡り、不明な点が多かったが、大河ドラマ「八重の桜」で、主人公・山本八重の夫として注目されることになり、一気に研究が進んできた。
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最近の研究では、但馬・出石城の本町に住む、貧しい出石藩士・川崎才兵衛の子とされ、誕生年は1836年とされる。
川崎正之助が6歳(1841年)に父親が隠居。兄、川崎恭助が足軽格に降格して家督相続。
川崎正之助は、1854年頃に江戸に出て来て舎密や蘭学を学んだが、川崎正之助が江戸に出るまでの事はまだ良くわかっていない。
川崎正之助は江戸にて蘭学者・杉田成卿らに学んだ後、1856年には医師・大木忠益(後の坪井為春)の塾に在席し蘭学を学んだ。
このとき、山本覚馬も2度目の江戸遊学で大木忠益の塾に在席しており、2人は大木忠益の塾で知り合ったようだ。(佐久間象山の塾で最初知り合ったとも考えられるが、良く分かっていない。)
川崎正之助は砲術にも優れていた為、山本覚馬は川崎正之助の才能を高く評価していた。
その後、山本覚馬は2度目の江戸遊学を終えて会津に戻ると、1856年に会津藩校「日新館」で蘭学所を開いて教授に就任。
その話を聞いた川崎正之助は、1857年、山本覚馬が樋口うらと結婚した頃に、会津を訪れたと考えられている。
川崎正之助は山本覚馬の推薦により、会津日新館・蘭学所の教授に就任したが、川崎正之助は「不肖人の師たるに足らず」として給料の受け取りを辞退し、山本覚馬の自宅に寄宿しながら蘭学所の教授を務めたと言う。
京にいた山本覚馬は、会津藩に対して、砲術ができる川崎正之助を京に派遣するよう願い出たが、会津藩士ではないと断られている。
会津藩の軍制改革として、蘭学所の砲術科が、藩の砲術部門となると、川崎正之助も軍事奉行の指揮下に移ったと考えら、会津藩士の名簿「御近習分限帖」に、川崎正之助(河崎尚之助)は大砲方頭取13人扶持の会津藩士としての記述も見られる。
会津藩士になった川崎正之助は、初代会津藩主・保科正之と同じ「正」の字を使用することを避けて、代わりに「尚」の字を当て、名前を「川崎尚之助」と改めたようだが、これも時期はわからない。
また、諸説あり、川崎正之助は会津藩士にならなかったと言う説もあり、会津若松城の籠城前に会津藩から脱出したと言う説もある。
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会津に残されている記録の多くにも川崎正之助は「浪人砲術師」とあり、山川大蔵の弟でのちに東大総長になった山川健次郎でさえも「但馬辺の浪人」と書いている。
山本八重と川崎尚之助は、正式に結婚していなかったと言う説もあるが、2012年になって、山本八重の事を川崎尚之助妻と記載した戸籍が見つかっている。
会津藩士の娘・山本八重と川崎尚之助が結婚するには、藩の許可が必要であることから、川崎正之助は山本八重と結婚するまでに「武士」の身分となっていたと考えられるが、これも諸説有り、時期も理由も良くわかっていない。
山本八重と結婚するに至った理由を考えると、目も悪くなった山本覚馬が、会津藩の今後を憂いて、有能な砲術家でもあった川崎正之助を会津藩士にするため、山本八重と結婚させたとも考えられる。
総合すると、川崎正之助(推定27歳)は山本八重(19歳)と結婚したとされる1865年頃に正式な会津藩士となり、会津藩士となったことを機に「川崎尚之助」と名前を改めた可能性があるとも考えられる。
1868年の鳥羽伏見の戦い直後には、米沢藩士・内藤新一郎と小森沢長政が会津藩を訪れ川崎尚之助と山本権八から砲術を学んでいる。東北では米沢藩だけが西洋式鉄砲を導入していた。(大砲導入は会津藩だけ)
米沢藩は更に43名を会津藩に送り、鉄砲を学ばせているが、山本覚馬は既に薩摩藩邸の牢獄におり、会津では生死不明になっていた。
新政府軍が東北に迫ると、米沢藩士は帰国したが、内藤新一郎と小森沢長政ら数名は、会津藩と米沢との連絡役になった為、会津に残り、山本家の屋敷に寄宿。会津若松城での籠城初日まで会津に滞在していた。
さて、会津若松城籠城からの川崎尚之助の行動についても、更に諸説あるが、各説を丁寧に説明したい。
通説の場合、山本八重の夫・川崎尚之助は会津若松城内で砲撃の指揮を取ったとされるが、元々会津藩士ではなかったので籠城前に山本八重と離縁して、会津藩から逃れたと言う説もあり、江戸で塾の教師になったとも。
他には敢死隊の副隊長に編入され、会津城から出て戸ノ口原で新政府軍を迎え撃った際、隊長の小原信之助が戦死すると、川崎尚之助が敢死隊の指揮を取り新政府軍と戦うが敗走し、川崎尚之助らは佐川官兵衛らと合流して若松城へと退却。
その後、川崎尚之助は敢死隊を率いて若松城の豊岡神社を守備し、豊岡神社の山砲にて小田山に布陣する新政府軍に向けて、弾が尽きるまで砲撃を加えたとされる。
更に別の説では、籠城の途中で新政府軍に一人降伏し、逆に小田山の砲台から、鶴ヶ城を砲撃したと言う説まである。
この説は、戦後の新政府軍の証言の1つに、川崎??と言う人物に、会津若松城を効果的に砲撃できる場所を教わったと言う話からきている。
いずれにせよ、この籠城前後より、川崎尚之助の生涯消息に関しては良くわかっていなかったが、2011年になって、川崎尚之助について書かれた公文書など40点が、札幌市の北海道立文書館で見つかった。
ここからは川崎尚之助は最後まで籠城して、他の会津藩士と同様に猪苗代へ行き謹慎したと言う新説にて記載。
この説によると、戦後すぐの時点では川崎尚之助は山本八重と離婚していない。
降伏から1年後の1869年(明治2年)11月3日、会津藩の再興が許され、青森の斗南藩(となみ)3万石の地が与えられた。
1870年(明治3年)1月5日に旧会津藩士の謹慎が解かれ、1870年5月から新天地となる斗南藩への移住が始まり、約17000の旧会津藩士とその家族の多くが、新天地で生活することになった。
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川崎尚之助は他の会津藩士と同様に猪苗代を経て東京で謹慎。
その後、京都に滞在した模様だがのち、1870年10月に海路で斗南に行き、野辺地港に到着し、斗南藩に移ったとされる。
同じ1870年(明治3年)11月頃、会津に残っていた妻・山本八重は一家で仙台の内藤新一郎(米沢藩士)を頼っており、この頃には既に川崎尚之助と行動を共にしていなかったようだ。
斗南藩士となった川崎尚之助は「開産掛」に任命され、商取引で利益を上げる仕事に就いた。
農産物がほとんど取れない斗南藩にとって貿易は貴重な収入源であり、開産掛は斗南藩を救う重要な仕事だった。
川崎尚之助は商取引を行うため、斗南藩士・柴太一郎と共に貿易の盛んな北海道・函館へと渡り、斗南藩士を名乗る米座省三(よねざ しょうぞう)と知り合う。
そして、米座省三の紹介でデンマーク商人デュークと広東米の取引をして、川崎尚之助は斗南の為、食料を調達した。
困窮を極める旧会津藩士にとって、食料調達は最重要課題と言って良い。
しかし、斗南藩に購入資金は無い為、斗南藩が栽培開始した大豆の収獲を担保に先物取引をし商談を成立されたと言う。
ところが、米座省三は自分の借金を埋めるため、広東米の手形を担保にブランキントン商会から借金をして逃走。
約束の広東米が受け取れなくなり、その後の調べで、米座省三は会津藩士でも斗南藩士でもなく、信州出身の出入り商人だったことも判明。
米座の借金返済がなければ、広東米が渡されないという事態に陥ったのだ。
川崎尚之助はこの手形を取り戻すための訴訟を起こすが、当然、大豆取引は成立せず、逆にデンマーク商人デュークから川崎尚之助と柴太一郎が訴えらる。
その間、逃亡中の米座が東京で逮捕され、ようやく手形は川崎の手に入ったが、今度は斗南藩が大豆の栽培に失敗しており、大豆の代わりに金銭を払う為、受け取った広東米を売却して支払いに当てる事となった。
しかし、既に古米となり、相場も下落していて、売却しても代金の全額にはほど遠かった為、大損害が起きた。
その為、デンマーク商人デュークは斗南藩に残金の支払いを求めるも、 斗南藩はこの取引を川崎と柴太一郎の独断と断罪し、関与を否定。。
この責任を川崎尚之助・柴太一郎が背負った。
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こうして、川崎尚之助・柴太一郎・米座省三は刑事事件として裁判となる。
外国人が関係している裁判だったため、明治政府としては裁判を東京で行うことにし、川崎尚之助らは東京へ移送された。
川崎尚之助は東京の身元引受人の元で不遇な日々を過ごしたうえ、身元引受人もトラブル起こし、身元引受人が3度も変わるという事態に遭い、東京で食事に不自由するほどの不遇な生活を送ったとされる。
このとき、川崎尚之助を支援したのが、旧米沢藩士・小森沢長政だったが、川崎尚之助は体調を悪化させていた。
3人目の身元引受人・根津親徳が1875年(明治8年)2月に川崎尚之助を東京医学校病院(現在の東京大学病院)へ入院させる。
しかし、重い慢性肺炎で1875年(明治8年)3月20日に川崎尚之助は死去。享年39歳(40歳とも?)で、称福寺に埋葬されたとされるが定かではない。
裁判の方は、川崎尚之助に相続人が居ないため、川崎尚之助の死をもって終結。
川崎尚之助が山本八重に巨額の負債が掛からないよう、何らかの方法で離婚していたとも考えられるが、どの説でも、山本八重と川崎尚之助の離婚理由は良くわかっていない。
川崎尚之助供養之碑が、出石の宗鏡寺 (沢庵寺)にあった。
山本八重も生涯、川崎尚之助の事を何度聞かれても「離縁した」と一言だけ発し、離婚理由はおろか、どのような人物だったのか、馴れ初めなども一切語っておらず、詳しい事は不明である。
(参考文献) ウィキペディア、NHK大河ドラマ、あらすじと犯人のネタバレ、福島県観光交流局
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