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文久3年(1862年)3月6日、土佐藩士・吉村寅太郎(よしむら-とらたろう)は関所を抜けました。
「ちっくと公用で薩摩まで」といえばあやしまれることもありませんでした。
ですが、吉村寅太郎は脱藩するために関所を抜けたのです。
土佐藩士として、初めての脱藩者でした。
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では、吉村寅太郎はどうして土佐藩を脱藩したのでしょうか。
脱藩後は天誅組として討幕運動に殉じています。この天誅組の変は、現在ではそれほどクローズアップされることはありませんが、実は討幕運動の先駆けともいえる出来事だったのです。
そこで今回は、土佐藩脱藩浪士・吉村寅太郎が中心となった天誅組の変についてわかりやすく説明します。
土佐藩脱藩浪士・吉村寅太郎の脱藩
幕末の偉人として、土佐藩の人間であげられるのは、やはり坂本龍馬ではないでしょうか。
僅かながら、一足先に吉村寅太郎が脱藩しています。その共通点はそれぞれ脱藩前に土佐勤王党にいたことです。
現在の高知県高岡郡津野町で庄屋の跡を継いだ吉村寅太郎は、土佐藩の身分では「郷士」にあたります。
土佐藩は身分制度が複雑です。
土佐藩士は「上士」「郷士」に分類され、とりわけ郷士は上士に虐げられていました。
吉村寅太郎は、郷士の末端にあたる庄屋階級だったわけです。
現在でいうところの「村長」だとか「村役人」だとかいうような立場にありました。
庄屋として活躍ぶりから吉村寅太郎がいかに正義感にあふれていたかがわかります。
上士に歯向かって須崎郷浦から下分村に転任させられているのです。
その後、檮原村に転任しています。
現在に至るまでここでの治績が高く評価されていることから、吉村寅太郎がどれだけ村々のために尽くしていたかがうかがえます。
しかし、土佐勤王党を立ち上げる武市端山(半平太)の門人となったことで、尊王攘夷思想に傾倒しました。
同様に、武市端山とは縁戚にあたり、土佐勤王党に加入している坂本龍馬とは親しかったともいわれています。
土佐勤皇党に加盟した吉村寅太郎が脱藩を決意したのには、長州藩の久坂玄端、福岡藩の平野国臣、さらには清川八郎といった志士との出会いが関係しています。
どうして、吉村寅太郎が長州藩士や福岡藩士と知り合っているのか。
それは文久3(1863)年の2月頃、武市半平太の使いとして長州まで向かい、そのまま北九州まで足を延ばしていたからです。
「薩摩藩の島津久光が京都で挙兵するので、各地の志士たちを集結させている」と知らされた吉村寅太郎は、脱藩して京都に向かうよう武市端山を説得しました。
しかし、土佐勤王党が挙藩勤王(土佐藩が一致団結して尊王攘夷をおこなう)を掲げていたため説得は平行線を辿ります。
土佐勤王党は最初から最後までこの挙藩勤王から揺らぎませんでした。
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脱藩に踏み切った吉村寅太郎は、尊王攘夷思想の中心地となっている長州までやってきます。
そしてすぐに大坂を経由して京都まで向かいました。
当時の京都は政治の中心地、否応なしに政争に巻き込まれます。
それが寺田屋事件です。
「京都の市街地に火を放って挙兵を促す」という、あまりにも過激な尊王攘夷の思想の持主であった薩摩藩士・有馬新七が、朝廷から取り締まるよう言い渡された島津久光によって滞在先の寺田屋を襲撃された出来事です。
つまり、薩摩藩関係者の同士討ちになります。
この寺田屋事件に少なからずかかわっていたため、吉村寅太郎は土佐藩に送還されました。
釈放されたのは八カ月後。
釈放後は本格的な尊王攘夷活動に身を投じます。
天誅組の変が志士たちを奮い立たせた
尊王攘夷活動に奔走していた吉村寅太郎は公家・中山忠光と出会います。
中山忠光もまた、高貴な身分(後の明治天皇の母方の叔父にあたる)でありながら尊王攘夷活動に加わっていたのです。
久留米藩の真木保臣から尊王攘夷の洗礼を受けています。
下関戦争前夜、ふたりは意気投合したのです。
下関戦争が勃発したのは文久3(1863)年5月10日のこと。
長州藩が関門海峡を通過する外国船に砲撃しました。
この際、中山忠光は冠位を返上して長州入りします。
公家装束に甲冑を着込んで、自ら砲撃に加わったのです。
下関戦争後、朝廷から公明天皇の大和行幸が知らされました。
下関戦争から2ヶ月後、文久3(1863)年8月13日のことです。
攘夷派の公家、そして真木保臣が関わっていました。
この大和行幸の目的は、大和の神武天皇陵の参拝後、天皇自らが攘夷戦争をおこなうという「攘夷親征」の誓いを立てることにあったのです。
ここではじめて天誅組が登場します。
大和行幸の先駆けとして吉村寅太郎が中山忠光を主将にして組織したものだったのです。
ここで誤解されがちなのが、天誅組は尊攘派の公家なり真木保臣なりに先鋒隊を命じられたわけではないということ。
大和行幸の情報を得て、先んじて挙兵したのです。
8月14日、天誅組は京都から大和を目指しました。
大和に到着した天誅組は8月17日には大和国五条代官所を襲撃、代官をはじめ関係者五人を殺害、さらに代官所もろとも焼き払っています。
そして、五条代官所の支配地域を「天朝直轄地」としたのは8月18日です。
奇しくもこの日、八月十八日の政変が勃発しました。
公武合体派の公家に、薩摩藩・会津藩が協力して、朝廷内から長州藩勢力を一掃したクーデターのことです。
このことで天誅組は後ろ盾を失います。
しかし、そもそも孝明天皇は外国人嫌いではありましたが、長州藩の過激な攘夷には反対的であり、今回の大和行幸も延期を申し出ていました。
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幕府の討伐隊を迎え撃たなければならない危機的な状況に追い込まれた天誅組は十津川郷に逃れました。
壬申の乱、平治の乱での功績によって江戸時代には天領として免租され、郷士の身分を与えられている勤王の集落だったからです。
天誅組は高取藩に兵糧の差し出しを要求、これが拒否されたため高取城攻めに至りました。
十津川郷士たちが加わっていますが実戦経験が乏しいこともあり、城攻めは圧倒的に不利な状況でした。
さらに追い打ちをかけるように朝廷が「天誅組は朝廷軍ではない」と明言したため、十津川郷士たちが離脱してしまいました。
起死回生を狙って、吉村寅太郎はたった24人の決死隊で夜襲に踏み切ります。
その途中、高取藩の斥候と遭遇して乱戦になりました。
このとき、吉村寅太郎は見方の誤射によって腹部に銃弾を受けたため、苦渋の決断で撤退します。
結果的に、高取城では大敗、天誅組は吉野郡鷲家口へ後退せざるを得ませんでした。
程なくして、朝廷から発せられた中山忠光の逆賊の詔によって、天誅組は壊滅状態になりました。
それから1ヶ月、潜伏しているところをみつかった吉村寅太郎は中山忠光を逃してから自ら命を絶ちます。このとき27歳、すでに歩くことさえできない状態だったそうです。
この天誅組の変は尊王攘夷の志士が「倒幕」の二文字を日本全国に知らしめたものでした。
尊王攘夷の志士たちだけでなく、全国的に倒幕の機運が高まるきっかけになったという見方もできるでしょう。
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吉野山風に乱るるもみじ葉は
わが打つ太刀の血けぶりと見よ
尊王攘夷活動に殉じた波乱万丈の人生は、この辞世の句からも読み取れます。
(寄稿)いずみさわふじこ
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