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玉木文之進(たまきぶんのしん)は、1810年9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(杉七兵衛)の3男として萩で生まれる。
1820年6月、家格では杉家より上にあたる大組士・玉木正路(玉木十右衛門)(40石)の養子となって、玉木家の家督を継ぐ。
書や詩文でも才能を発揮し、長州藩の藩校・明倫館で教えたほどであった。
1841年5月17日には、妻・国司氏の娘との間に、長男・玉木彦助が誕生。
1842年、松本村に松下村塾を創設。吉田松陰だけでなく、親戚の乃木希典も玉木文之進から教育を受けている。
なお、吉田松陰の叔父である玉木文之進は、幼少期の吉田松蔭を厳しく教育した。
例えば、吉田松陰が講義中に蚊に刺されて、頬をかいた際には「頬がかゆいと言うのは「私ごと」であり、今は「公の為」に学んでいるのに「私ごと」を優先するとは何事か」などと厳しく指導している。
また吉田松陰が脱藩や密航を企てた際にも、厳しく叱責したが、吉田松陰の事は評価しており、のち松下村塾を任せる事となる。
1843年、大組証人役として出仕。
吉田松陰が10歳で藩校・明倫館の助教授となったときには、玉木文之進が後見人となっている。
1855年、長男・玉木彦助が元服。
1856年、玉木文之進は吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して名代官と評された。
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1859年、藩内でも有能さを買われて郡奉行に昇進したが、安政の大獄で甥の吉田松陰が捕縛されると、その助命嘆願にも奔走した。
しかし、吉田松陰は処刑され、その監督不行き届きにより連座し 1860年11月に代官職を罷免されている。
1862年、郡用方として復帰すると、1863年からは奥阿武代官として再び萩藩政に参与。
その年のうちに当役(江戸行相府)となった。
萩藩内では尊王攘夷派として行動し、毛利一門の家厚狭毛利家・毛利親民の参謀を兼ね、1866年、第2次長州征伐では萩の守備に当たった。
しかし、この間、1865年、高杉晋作らと俗論党と戦った、玉木彦助は負傷して自害した。
その後、玉木文之進は奥番頭にまで昇進するが、明治2年(1869年)には引退して、再び松下村塾を開いて子弟の教育に務めた。
ところが明治9年(1876年)、前原一誠が新政府に対して挙兵した「萩の乱」に、養子の玉木正誼(乃木大将の実弟)や門弟の多くが参加。阻止できなかった為、「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い、責任を取る形で1876年11月6日に先祖の墓の前で自害。享年67。
介錯は、杉千代(吉田松陰の妹で、杉寿と杉文の姉)が行ったと言う。
その後は玉木正誼の子、玉木正之が家督を相続した。
山口県萩市に玉木文之進の旧宅が保存・公開されている。
建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋、3畳半の玄関・4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。
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