徳川家茂~幕府に翻弄され大阪城で殉じた徳川幕府の14代将軍
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徳川家茂とは
徳川家茂(とくがわ-いえもち)は、1846年閏5月24日、紀州藩第11代藩主・徳川斉順の次男として江戸の紀州藩邸(東京都港区)で生まれた。
母は、側室である松平晋の娘・みさ(実成院)。
兄にあたる童が、1830年に死産となっていた為、次男であったが1849年に叔父の第12代藩主・徳川斉彊が死去すると、その養子として紀州徳川家の家督を4歳で継いだ。
後見には隠居していた元藩主・徳川治宝があたったが、死去すると徳川家慶の側室を妹に持つ、保守派の付家老・水野忠央が藩内の実権を握り、伊達千広(陸奥宗光の父をはじめ、藩政改革派が弾圧された。
1851年、元服すると第12代将軍・徳川家慶より1字を賜って、徳川慶福(よしとみ)と名乗り、常陸介に任官され従三位に叙位された。
1853年にはペリー提督が浦賀に来航(黒船来航)。
将軍継嗣をめぐって水戸藩主・徳川斉昭の七男・一橋慶喜を推す一橋派と、徳川家慶の甥で血縁が近い、徳川慶福を推す南紀派によって争いが起こった。
なお、紀州藩主となっていたのは9年2か月で、この間もずっと江戸にいたため、紀州へ帰国したことは一回も無いまま、1858年、一橋派との抗争の末、徳川幕府の第13代将軍・徳川家定が死去すると、第14代将軍に就任した。
この時、まだ13歳であつたため、1862年までは田安慶頼が後見し、その後は徳川慶喜が将軍後見職となった為、ほとんど権力行使はできていない。
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1860年には桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されるなど、幕府の威信が揺らぐ中、1862年、公武合体策の一環として和宮と結婚。
政略結婚であったが、和宮との関係は良好であったと言い、歴代将軍で正室と最も夫婦仲が良かったのは徳川家茂と和宮であったと言われるほどである。
1863年、将軍としては229年振りに、第3代将軍・徳川家光以来となる京への上洛を果たし、義兄・孝明天皇に攘夷実行を誓う。
1865年、兵庫開港を決定した老中・阿部正外らが朝廷によって処罰されると、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申。
そのため、孝明天皇が慌てて、その後の幕府人事へは干渉をしないと約束し、辞意は撤回している。
1866年、第2次長州征伐のため大阪城に入ったところ病に倒れた。
この知らせを聞いた孝明天皇は、すぐさま典薬寮の医師である高階経由と福井登の医師2人を大坂城へ派遣させ、江戸城からも天璋院篤姫や和宮の侍医である大膳亮弘玄院、多紀養春院、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らの医師が急遽大坂城へ派遣された。
しかしその甲斐なく、徳川家茂は1866年7月20日に大坂城にて脚気衝心のため薨去。享年21(満20歳没)。
徳川家茂の墓所は東京都港区の増上寺で、和宮と一緒に並んで埋葬されている。
徳川家茂は死の際、徳川宗家の後継者・次期将軍として田安亀之助を指名したが、実現されず、徳川慶喜が第15代将軍に就任した。
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コメント
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2015年 8月 26日トラックバック:あらすじ 花燃ゆ 第35回(第35話)ストーリー – ドラマ情報
ご指摘、誠に、ありがとうございます。
修正させて頂きましたこと、ご報告申し上げます。
引き続き、注意して参りたいと存じます。
南紀派に島津斉彬は変でしょう?天璋院篤姫の記事では一橋派になっていますよ