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桂太郎(かつら-たろう)は、萩城下の平安古にて、1847年11月28日に生まれた。
父は、長州藩士・馬廻役(上士)の桂與一右衛門(125石)で、その嫡男。名は清澄、号は海城、幼字を寿熊・左中と称した。
母は長州藩士・中谷家(180石)の娘・喜代子。
なお、この桂家は、毛利家と同族であり、本姓は大江氏。
すなわち、相模の毛利庄を知行した鎌倉幕府・政所別当である大江広元の4男・毛利季光の末裔となる。
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叔父である中谷正亮は、吉田松陰の松下村塾を支援していた。
ただし、吉田松陰が29歳で刑死(1859年)した際、桂太郎はまだ13歳であったため、松下村塾では学んでいない。
1860年、藩の西洋式操練に参加し鼓隊に入ると、家柄が良かった桂太郎は長州藩の正規軍である選鋒隊となった。
1864年7月に、世子・毛利元徳の小姓役になった。
第2次長州征伐では志願して、大村益次郎が指揮する石州口の戦いに参加。
戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀添役、第二大隊司令として奥羽各地を転戦。
主に偵察や連絡などの後方支援を担当した。
庄内藩との新庄での戦いでは、激戦の末に破れると言う苦戦となり、約200名の部下からは、戦死者41名、負傷者53名も出したと言う。
しかし、隊長の桂太郎は、かすり傷1つ負わなかった。
その後、軍功が評価されて賞典禄250石を受けている。
明治3年(1870年)、ドイツ留学をしたが私費であったため、現地での生活は苦しく、ヨーロッパ使節団としてドイツを来訪した木戸孝允を訪ねると、官費留学を願い出ている。叔父・中谷正亮と木戸孝允(桂小五郎)は親しい間柄であった。
木戸孝允は1873年7月に帰国すると、官費留学への切り替え手続きをしたが、桂太郎は10月に帰国している。
帰国後、木戸孝允は陸軍卿・山縣有朋に頼み、桂太郎は陸軍大尉となり、大村益次郎が発案した徴兵制度を推進した他、順調に昇進した。
陸軍に入ってからもドイツに赴任し、現地で軍事の研究なども行い、参謀本部設立などドイツ式の軍制導入も行った。
明治27年(1894年)の日清戦争では、名古屋第3師団長(陸軍中将)として出征。
その後、台湾総督を経て、第3次・伊藤博文内閣にて陸軍大臣(陸軍大将)に就任した。
明治34年6月、元老会議は桂太郎を推薦し、明治天皇が桂太郎に組閣を命じ、内閣総理大臣に就任した。9月には小村寿太郎を外相に起用し、日英同盟締結を進めている。
結果的に日英同盟は日露戦争にて日本に有利に作用し、海軍・東郷平八郎、陸軍・大山巌の働きもありロシアに勝利した。
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その後は西園寺公望と交互に組閣(桂園時代)したが、第2次桂内閣では日韓併合や大逆事件の検挙、関税自主権回復の条約改正など、評価は別として日本史上、大きな出来事があった。 そして、第3次桂内閣の時に尾崎行雄や犬養毅による第一次護憲運動が発生し退陣。
民衆の力による初の内閣総辞職後は、癌の症状が悪化し、脳血栓も起こし、大正2年10月10日午後16時に死去した。享年67。
墓所は遺言により、東京で吉田松陰を祀る松陰神社に隣接している。
・桂家・毛利家の祖「毛利季光」と、その先祖の地は?
・木戸孝允(桂小五郎)の生涯【詳細版】長州藩を救った見識家
・小村寿太郎とポーツマス条約とは~大国と渡り合った外務大臣
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コメント
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2015年 9月 15日
ゆうきと剣道さま、この度は、コメントを賜りまして、深く御礼申し上げます。
私自身、調べてみて、初めてわかる事が多いので、大変恐縮致しております。
しかしながら、歴史から学ぶと言う事は、将来を誤らないためにも大切な事だと存じております。
また、何かございましたら、コメント賜りますと幸いです。
いつも興味深く拝見しています。上辺だけの知識で、このブログを見て行きつく迄の過程が分かり、そんな事が裏には有ったのかと、いつも感心して読んでいます。