杉梅太郎 (杉 民治) 松下村塾を再興した吉田松陰の実兄




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 杉梅太郎は1828年2月29日に長門国萩松本村(萩市椿東)で誕生した。名は修道。字(あざな)は伯教。通称は梅太郎。号は学圃(がくほ)。
 父は萩藩士・杉百合之助で、母は滝。
 2歳年下の弟に吉田寅次郎がいる。杉梅太郎は長男。

 幼い頃から、吉田寅次郎と共に、父・杉百合之助と叔父・玉木文之進から指導を受けた。
 また、同じ布団で寝ていたとも。
 1842年、玉木文之進が創始した松下村塾にて学び、常に弟・吉田寅次郎(吉田松陰)を支えたと言う。

 藩校明倫館でも学び、1849年には、吉田松陰から山鹿流兵学の伝授書を与えられている。

 妻は杉亀で、娘は杉豊(すぎとよ)がいる。


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萩藩士・杉梅太郎

 1853年、ペリー来航後、彦根藩との交代で長州藩の担当となった江戸湾警備のため相模国(神奈川県)に赴任。総奉行は益田越中。
 長州藩は三浦半島の上宮田(南下浦町上宮田、三浦海岸駅周辺)に本陣を置き、ここには若き日の木戸孝允伊藤博文も藩士として警備の任についていた。
 この長州藩の江戸湾海防は1858年に熊本藩に引き継がれるまで続き、陣屋では医師が地元民の診察もしたり、集団種痘も行ったと伝わる。
 また、長い勤務であった為、現地で亡くなる藩士もおり、三浦に長州藩士の墓は8基残されていると言う。

 杉梅太郎は、1854年、吉田松陰のアメリカ密航未遂事件に連座し、帰藩を命じられたが、すぐに許されて郡奉行所にて勤務した。
 杉梅太郎は温厚で真面目だったとされる。吉田松陰が遊学する際には一家の生活を切りつめて、旅費や学資を送り、松下村塾にも多大な支援を行った。
 一方、野山獄に投獄された吉田松陰に対しては、希望した書物を届けるなど、助力を惜しまず勉学を支えた。

 1859年、吉田松陰の江戸送りに連座して、父・杉百合之助と共に免職となる。
 翌年1860年、杉家の家督相続を許されると再登用され、1863年には御蔵元役所本締役となった。
 藩内では高杉晋作ら諸勢力の仲裁役としての行動も見られ、手腕を振るった。

 1865年、藩内戦の際に東光寺組を結成。手廻組に加えられ、民政方御内用掛となっている。

 明治元年(1868年)、当島・浜崎の宰判(萩市及び阿武郡の一部)の民政主事助役となる。
 明治2年、民政に尽力した功労により藩主から「民治」(みんじ)の名を拝領し、杉民治と改名。
 新政府では山口県に出仕し、ほとんど平地のないこの山代地域で、雑木林を切り開き、川の水を水路に引いて新田開発を行うなどの功績がある。
 明治11年まで長州の発展に寄与し退職した。

 明治13年頃に、吉田松陰の意志を継ぎ、閉鎖されていた松下村塾を再興。子弟の指導に当たった。
 また明治25年5月、私立修善女学校の校長となり、子女の教育にも努めている。
 修善女学校は、萩の婦人信者の修善講が創設した各種学校で、明治29年に財政難で一度閉鎖さりたが、明治36年に萩婦人会が設立母体となって再開され、杉民治が再び校長になった。
 杉民治の妻・杉幸子(杉亀)が婦人会幹事の1人であり、妹・楫取美和子は副会長の1人であった。

 明治43年(1910年)11月11日 82歳で死去。

 (参考) 萩の人物データベース



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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