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高島秋帆とは
高島秋帆(たかしま-しゅうはん)は、江戸時代後期の1789年に生まれた砲術家で、父は長崎の町年寄である高島四郎兵衛となります。
高島氏は、近江源氏・佐々木氏の末裔で、近江・高島を拠点にしていたようですが、戦国時代に長崎へ逃れたようです。
江戸時代の長崎では、高島家の当主が、長崎町年寄を世襲しており、長崎奉行を補佐し、出島の建造にも尽力したと言う事です。
街年寄(まちどしより)と言うのは、町役人の筆頭など最有力者のことを言います。
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砲術の研究
オランダ船も訪れる長崎で育った高島秋帆は、父から荻野流砲術と、天山流砲術を学び、1814年から出島砲台の責任者になっています。
しかし、日本の大砲では、武装した外国船に歯が立たないことがわかり、西洋の大砲との性能差に驚きます。
そのため、出島でオランダ語や洋式砲術の知識を吸収し、自費で武器も購入し研究しました。
1823年に来日した、オランダ人の出島商館長・スチュルレルは、元陸軍大佐でナポレオン戦争にも従軍しており、軍隊の指揮などに関しても、学べたようです。
また、町年寄には幕府の許可を得ずに、外国から書物や品物を、個人的に購入する権利があったようです。
その結果、天保5年(1834年)、高島流砲術を成立させ、洋式銃陣の設計や、独自に大砲の製造も行いました。
父が死去し、1837年、高島秋帆が長崎町年寄本役に就任しています。
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アヘン戦争で、清がイギリスの植民地になると、大きな衝撃を受け、西欧列強のアジア侵略から日本を守るため、洋式砲術を採用すべきだと、長崎奉行の田口加賀守を通じて、江戸幕府に意見書を提出しました。
上書は老中・水野忠邦の目にとまり、1841年、幕命により江戸に出ると、徳丸ケ原(東京都板橋区)にて、日本最初の洋式砲術演習を、一発の不発弾もなく成功させています。
諸大名だけでなく、若き勝海舟も見学していたと言います。
演習場は、都営三田線の高島平駅から近いところですして、駅名・地名の由来にもなりました。
その結果、高島流砲術が、江戸幕府に採用されて、幕臣・江川英龍や下曽根信敦のふたりに高島流を教えて、長崎に戻りました。
しかし、1842年、蘭学などを嫌っていた幕臣・鳥居耀蔵(とりい-ようぞう)が妬み、長崎奉行・伊沢政義によって、密貿易など謀反の疑いで逮捕され、江戸伝馬町にて投獄され、高島家は断絶となっています。
その後、鳥居耀蔵の不正が露見すると、謀反の罪は冤罪であったことがわかり、高島秋帆は他の罪は問われ、武蔵の岡部藩(深谷)にて幽閉となりました。
この減刑には、江戸小伝馬町が3回火災を起こしても、鎮火後、牢へ自主的に戻ったと言う、まじめさも評価されたと言われています。
深谷では、諸藩の志士が秘密裏に高島秋帆に接触しており、渋沢栄一とも面識を得た模様です。
また、幽閉中に高島秋帆は、鎖国・攘夷が無謀であることに気が付き、開国して通商をすべきと、幕府に意見書も提出しました。
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その後、浦賀にペリー提督が訪れるなど、国際情勢が大きく緊迫したことから、10年後の嘉永6年(1853年)、老中・阿部正弘は、江川太郎左衛門が引き取ると言う条件で、高島秋帆を釈放します。
江戸幕府の幕臣に取り立てられて、安政2(1855)年には普請役になると、また、鉄砲方手付教授方頭取を命じられています。
江戸幕府は本格的な西洋式の軍隊をつくることになり、1857年、富士見宝蔵番兼講武所支配および師範(具足奉行格)となり、幕府の砲術訓練の指導にもあたりましたが、1866年、69歳で死去しました。
2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、高島秋帆を、俳優の玉木宏さんが、演じられます。
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