山本うら(樋口うら) ~ 山本八重の兄・山本覚馬の妻
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樋口うらは、会津藩勘定方・樋口家の娘であったと考えられるが、嫁ぎ先の山本家との関係、また、樋口家が、どの会津藩家臣の樋口氏に当たるのか、詳細は不明である。
1857年、山本覚馬と樋口うらが結婚。山本覚馬は山本八重の実兄。
1860年、長女が誕生するも夭折。
1862年(文久2年)に次女・山本みね(峰、峯)を出産。
みねがまだ生後7か月のとき、山本覚馬は京都守護職を拝命した松平容保に随行し上洛し、以後、会津に戻ることはなかった。
山本うらは、会津若松城籠城の際には、山本八重と共に、城内に入ったとされる。
会津戦争で自宅を失った山本家の女性たちは、奉公人だった者の家で世話になったようで、青森には行かず、会津の山村で生活していた模様。
1870年(明治3年)11月ごろ、山本八重ら家族は、仙台に住む米沢藩士・内藤新一郎の元へ出稼ぎに行っているので、生活は苦しかったのであろう。
この内藤新一郎は米沢藩士だったが、山本家で砲術を学んでおり、会津戦争の際、山本八重らが若松城へ入城する日まで山本家に宿泊していた。
1971(明治4年)、山本家が内藤新一郎の家で世話になっていたとき、「鳥羽・伏見の戦い」で死んだはずの兄・山本覚馬が京都で生きていることが判明する。
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1869年、山本覚馬は京都府の顧問に就任するも、会津の山本八重らとは、会津の山本家の消息も不明で戦後の混乱もあり、連絡が取れなかったようだ。
明治4年(1871年)、会津の山本八重らに、兄・山本覚馬が存命であることが伝わると、山本家は京都府顧問の兄・山本覚馬を頼って、京都に移住することになった。
しかし、山本覚馬の妻・山本うらは京都に行くことを拒み、子の山本みね(峰、峯)は山本八重らと京都に行くこととなる。
山本うらと山本覚馬は事実上の離縁となった。
山本うらが、京都に行かなかった理由は、既に山本覚馬に愛人がいたことを知って、離婚を望んだともされるが、正確なことは不明。
その後のうらは、仙台で過ごしたとも、会津、又は、青森に移ったとも言われるが、詳しくはわからない。
なお、山本覚馬と山本うらの間に生まれた、山本みねは同志社女学校を卒業し、1881年(明治14年)5月、横井時雄 と結婚。
この横井時雄は、同志社の第3代社長で、逓信省官房長、衆議院議員にも選出されている。
(参考文献) ウィキペディア、NHK大河ドラマ、あらすじと犯人のネタばれ、福島県観光交流局
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コメント
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匿名さま、貴重な情報、誠にありがとうございます。
樋口うら はその後、俊(しゅん)と名を変え、和田吉十郎と婚姻、遷吉とマツが生まれた様です。