平塚らいてう~平塚明(ひらつかはる)はこんなスゴイ女性だった【とと姉ちゃん】


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平塚らいてう(ひらつか-らいちょう)の本名は、平塚明(ひらつか-はる)と言い、簡単に言うと女性運動や平和運動のパイオニアとも言える人物です。
明治19年に東京の麹町で生まれた平塚明は、3姉妹の末娘でした。
平塚家は、相模・三浦氏と言う名門の流れで、裕福だったと言います。

戦国時代に活躍した平塚為広は、豊臣秀吉の家臣として美濃・垂井城主として12000石でしたので、かなり有力な家臣ですね。
佐和山城にて石田三成が挙兵すると言いだした際には、大谷吉継と共に平塚為広も石田三成に考えなおすよう説得した武将でもあります。
関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋の動向を監視するも、予想通り裏切られ、劣勢になったところを山内一豊の家臣に平塚為広は討ち取られています。

昭和15年(1940年)になって、討死した場所に「平塚為広の墓碑」が建立されましたが、平塚らいてうもこの建立に協力しています。

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そんな末柄の平塚明(平塚らいてう)の父・平塚定二郎は明治政府の会計検査院に勤務する高級官僚で不自由なく成長したようです。
しかし、父からは女学校以上の教育は不要と言われつつも、説得して、成瀬仁蔵広岡浅子大隈重信伊藤博文渋沢栄一らが関与し設立された日本女子大学校家政学部に入学します。

1903年(明治36年)に入学した訳ですが、その翌年には日露戦争が勃発すると、やがて日本の教育も国家主義的な内容が多くなってきました。
そんな風潮に幻滅した平塚明(平塚らいてう)は、1906年(明治39年)に卒業すると、更に女子英学塾(津田塾大学)などで更に英語などを学び、文学に目覚めると小説「愛の末日」を出版しました。
しかし、これがキッカケで、当時にしてはかなり破廉恥(ハレンチ)な境遇に陥ります。

夏目漱石の門下生の一人でもある森田草平の聴講生として参加していた平塚明(平塚らいてう)だったのですが、小説「愛の末日」を読んだ森田草平が、才能を高く評価する手紙を送り、2人は恋仲となり関係を持つようになります。

1908年(明治41年)2月1日に、初めてのデートをしたそうですが、その後3月21日には塩原から日光に抜ける尾頭峠付近にて2人で心中未遂事件を起こします。
そのため、物議をかもし、新聞ではある事ないことなど、おもしろく書かれ、写真も掲載されたことから、22歳の平塚明(平塚らいてう)はセンセーションを巻き起こしました。

その後、平塚明(平塚らいてう)、女性差別の社会での女性解放に興味を持ち、1911年(明治44年)には、日本で初めて女性による女性のための文芸誌「青鞜」(せいとう)を発刊開始します。
「元始女性は太陽であつた」と言う有名なくだりを「らいてう」と言うペンネームで書き上げたのです。

1912年には、茅ヶ崎にて5歳年下の画家志望の奥村博史と出会い、同棲を始めると事実婚(夫婦別姓)してその後2児を設けています。
青鞜社を巻き込んだ騒動にも発展しますが、執筆も続けながら市川房枝らと国家による母性保護(女性が出産・育児するための権利保護)を訴え、新婦人協会を結成するなど活躍しています。

第2次世界大戦後には、日本共産党に参加して平和運動・反戦運動に尽力し、昭和45年(1971年)に85歳で亡くなるまで、自伝も精力的に発刊しました。

平塚明(平塚らいてう)は、まさに、時代の先端を行っていた女性ですね。

NHKの連続テレビ小説「あさが来た」では、元AKB48で女優の大島優子さんが演じられます。
とと姉ちゃんでは、真野響子さんが演じます。

(参考・引用)万葉歳時記一日一葉

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