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平山兵介(ひらやまひょうすけ)は水戸藩士で1841年生まれ。名は平山繁義。
一刀流の達人で、1858年に水戸藩に降りた密勅の返上を求めた徳川幕府に反発。
1860年7月には、水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らが、長州藩の桂小五郎・松島剛蔵らと連帯して行動する事を約束する、丙辰丸の盟約(成破盟約・水長の盟約)を結ぶ。
藩主・徳川斉昭の亡き後、1860年12月に住谷悌之介らと脱藩して京・大阪に赴いたが、住谷悌之介らが堺で捕らえらる。
その為、旅僧に変装し、1861年5月、水戸に帰国すると藩内に潜伏した。細谷忠斎などの変名を使った。
公武合体のため皇女・和宮の降嫁を実現させた孝明天皇の退位を、老中・安藤信正が進めようとしているとの噂があり、宇都宮の児島強介らと会談すると、老中・安藤信正の襲撃を計画し、同志を募った。
また、長州藩との丙辰丸の盟約があったが、長州藩は長井雅楽の公武合体論が藩の方針となったため、動かない長州の桂小五郎を訪ねたりしている。
そして、機を逸することを恐れ、長州なしで老中襲撃を行う事を決意。
最初、1月28日と日程を決めたが、12日に計画の一部が露見し、同志の大橋訥菴ら宇都宮側の参加者が捕えられたため、水戸志士を中心に残ったメンバーだけで決行することになった。
1862年1月15日の朝8時頃、雪が降る中、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三、越後の医師・河本杜太郎らの6人が、坂下門外で老中・安藤信正の行列を襲撃した。(坂下門外の変)
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坂下門外の変
まず河本杜太郎が、安藤信正の行列の前に飛び出して駕篭を短銃で銃撃した。
弾丸は駕篭をそれて小姓の足に命中したが、この発砲を合図に他の5人が斬り込んだと言う。
突然の襲撃により、警護45名は混乱状態に陥ったが多勢に無勢。たちまち浪士は斬り伏せられ、平山兵介だけがなんとか隙を突いて、駕籠に刀を突き刺した。
安藤信正は背中に軽傷を負い、抜刀して足袋だけのはだしで門内に逃げ込んだと言う。
桜田門外の変以降、老中や大名が登城する際の警備は厳重になっており、僅か6人の浪士らは全員闘死した。
平山兵介、享年22歳。
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