2分でわかる「向山一履」の解説~パリ万国博覧会に出席した全権公使

向山一履



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向山一履とは

向山一履 (むこうやま-かずふみ)は、幕末の幕臣で、旗本・一色真浄の3男として、1826年に江戸で生まれました。
母は、竹内氏の娘と伝わります。
幼いころから秀才だったようで、事務能力を評価されていた旗本・向山源太夫(むこうやま-げんだゆう)が養子として迎えました。
向山一履の名前は、一般的には、向山黄村(むこうやま-こうそん)として知られ、昌平坂学問所にて学ぶと、教授方出役になっています。


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養父・向山源太夫は、1855年に箱館奉行所が新設されると、函館奉行所の支配組頭を務め、配下に松浦武四郎などが加わっています。
しかし、1856年、養父は樺太からの帰りに、宗谷で死去したため、向山一履が家督を継ぎ、箱館奉行支配調役に就任しました。
3年後には箱館奉行支配組頭となり、樺太を探検して測量を行ったほか、ロシア人とも交流しています。

万延元年(1860年)、表御右筆から奥御右筆へとなり、1861年には、水野忠徳の知遇を得て外国奉行支配組頭になりました。
文久3年(1863年)、御目付から、1866年には外国奉行へと出世しており、勝海舟も高く評価していたようです。
また、若年寄格・駐仏公使に任命され、全権(使節団の責任者)となり、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武に随行してフランス・パリに渡り、ナポレオン3世にも拝謁しました。
随行員には、渋沢栄一田辺太一杉浦譲、保科俊太郎、栗本鋤雲高松凌雲らがいます。

パリ万博に薩摩藩が、幕府とは別に「日本薩摩琉球国太守政府」の名で出展していたのを見ると、薩摩側代理人モンブラン伯爵(ベルギー貴族)に、向山一履と田辺太一が抗議するなど、フランス側の通詞・カションと折り合いが悪く、仲たがいします。
更には、フランス外務省と対立しため、栗本鋤雲にあとを任せて、先に帰国の途につきました。
途中の香港にて鳥羽伏見の戦いの知らせを聞き、江戸城開城後、向山一履は43歳にして若年寄になるも、江戸幕府は崩壊しており、すぐに辞任した模様です。
<注釈> 若年寄(わかどしより)とは、老中に次ぐ重職のこと。



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以後、明治新政府に出仕することもなく、徳川家達に随従して駿府に赴くますが「静岡」と命名したのが、向山一履と言う事になります。
静岡学問所頭取に就任すると教育にあたりますが、閉校後は東京に移り、漢詩人として知られています。
向山一履は明治30年8月12日死去。享年72。

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、向山一履を、俳優の岡森諦さんが、演じられます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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