スポンサーリンク
毛利元昭(もうりもとあきら)は、1865年2月7日に萩の八丁邸にて生まれた。
父は長州藩最後の藩主であった毛利元徳で、その長男として誕生した。幼名は興丸。後に琢堂と号している。
母は銀姫(毛利安子、長府藩主・毛利元運の2女で、毛利敬親の養女)。
久坂玄瑞が亡くなったあと未亡人となった杉文(久坂美和)が、興丸(おきまる、毛利元昭)の養育係(守役)に抜擢されている。
明治維新後は、父に従い山口から防府三田尻御茶屋に住まいを移し、明治3年に気候温暖・空気清澄な標高225mの多々良山周辺を買収開始して、明治25年から多々良御殿を建設開始。現在の価値で約150億円もの巨費をつぎ込み、大正5年に完成したと言う。
完成後は、上京など出張する時以外は、生涯のほとんどをこの多々良御殿で過ごしている。
後にこの多々良御殿は毛利家庭園として整備され、国の名勝に指定され、現在は一般公開されている。
スポンサーリンク
妻は徳川慶勝の8女である富子(富姫)だったが、離縁して三条実美の3女・美佐子を迎え、2男・2女を設けている。
1897年(明治30年)、毛利家の家督を相続して公爵・貴族院議員となり、特に公共事業に尽力した。
1911年(明治44年)1月20日、麝香間祗候。書が得意で、多くの石碑の揮毫を行った。
昭和9年、妻の美佐子が60歳で没した。
昭和13年9月24日、死没。74歳。
スポンサーリンク
コメント
-
2015年 9月 26日トラックバック:毛利元徳 (毛利広封、毛利定広) 長州藩最後の藩主 – 幕末維新
この記事へのコメントはありません。