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吉川経幹(きっかわつねまさ)は長州藩の支藩となる周防岩国領(6万石)の第11代領主・吉川経章の長男で、1829年9月3日に生まれた。通称は監物。幼名は亀之進。
母は家臣・長井元幹の娘・梅(清操院、長井省吾の妹)。
正室は足守藩の第11代藩主・木下利愛の娘・木下順子で、側室は井上円治の娘。
1843年11月19日に父が死去すると、1844年1月14日に家督相続が許された。
1847年に藩校・養老館を創設すると玉乃九華を学頭に任じるなど政ごとにも熱心で、1853年6月にはペリー提督の黒船来航により、江戸付近要地の警備のため出兵もしている。
1857年、家譜取調べを開始。
1862年からは吉川広家以来、疎遠になっていた本家である長州藩毛利家との関係修復に努めた。
1863年5月、毛利敬親の名代として上京して京都警護(堺町御門の警護)に当たったが、八月十八日の政変の際には、京都から追われた7人の公卿を護衛して帰藩している(七卿落ち)。
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そして、1864年7月の禁門の変後は、官位をはく奪されたが、引き続き長州藩が存続するため、本藩を説得して恭順姿勢を取らせ、1864年の第一次長州征伐では幕府との仲介役も果たすと開戦を回避させ長州藩を救った。
1866年、第二次長州征伐では、長州勢と共に芸州口の戦い(広島口)で幕府軍を撃退するなど貢献した。
しかし、倒幕を見ることなく、1867年3月20日に岩国横山館にて病死、享年39。
長州藩主・毛利敬親は長男・吉川経健に政務を取らせ、家老・宮荘主水を名代として大阪に出兵させるなどし、吉川経幹の死は秘密扱いとし1867年12月には隠居願いを提出させた。
新政府樹立後の1868年3月13日には、吉川経幹が生存しているものとされて、駿河守に任じられただけでなく、正式に「藩」と認定され岩国藩6万石の藩となった。
その上で明治元年12月28日(1869年2月9日)、長男・吉川経健に家督を譲って隠居したとされ、3か月後の明治2年(1869年)3月20日に、死去したことが発表された。
法号は有挌院春山玄静。
墓所は岩国市横山の洞泉寺山墓地。
吉川経幹周旋記と言う26巻からの史料は、吉川経幹が1861年頃から幕府や朝廷と長州藩の間の周旋をし、明治1年に至るまでを、井上尚志、戸川勿らが編年体に編纂したもので、当時の長州藩を中心とする幕末維新の貴重な史料となった。
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2016年 5月 21日
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