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近衛忠熙(このえただひろ)は、江戸時代後期の公卿・近衛基前の子として1808年7月14日に生まれた。
母は尾張藩主・徳川宗睦の娘・琴姫。
1808年2月26日に元服すると、従五位上に叙位され、禁色と昇殿を許され、その後、順調に出世した。
1838年には、のちに共に活躍する子の4男・近衛忠房が誕生。
この近衛忠房の動向も交えてご紹介したい。
妻・興子は、薩摩藩主・島津斉興の養女であったことからも、条約勅許問題や将軍継嗣問題では一橋派として、幕府寄りの関白・九条尚忠と対立。
権大納言になった子の近衛忠房も、妻は島津斉彬の養女・貞姫であったため、薩摩藩とは緊密な関係であった。
特に、勅許なく日米修好通商条約が結ばれた事には反対し、右大臣・鷹司輔熙や内大臣・一条忠香、前内大臣・三条実万とともに、孝明天皇に働きかけ、水戸藩へ勅諚を賜るよう動いた(戊午の密勅)。
そのため、将軍継嗣問題と、戊午の密勅を大老・井伊直弼より敵視され、鷹司輔煕と共に安政の大獄によって1859年に失脚。
近衛忠熙は落飾し、謹慎した。
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桜田門外の変で井伊直弼が横死したあとも謹慎を続けたが、宥免されて謹慎を許されると、1862年6月に還俗して従一位に叙されて復帰。
九条尚忠に代わって、関白内覧となった。
そして、1863年には子の近衛忠房やと共に薩摩藩に協力すると、長州藩の勢力を京都から追放する八月十八日の政変に協力した。
しかし、公武合体の方針をとったため、宮中の討幕派勢力に押される形で、1863年1月23日に関白を辞したが、国事御用掛の職には留まって朝政に関与を継続。
なお、関白後任には、鷹司輔煕が就任している。
1866年、第二次長州征伐の際には、征討を強行する幕府と、長州藩を擁護する薩摩藩の仲介を、子の近衛忠房が務めている。
明治政府が樹立され東京に遷都されたが、その後も中川宮と同じように、京を離れる事はなかった。
しかし、明治天皇の再三の要請を受けて、子・近衛忠房が亡くなったあと、明治11年(1878年)に東京に赴き、役職にはつかなかったが天皇に助言などを与えている。
明治31年(1898年)3月18日、薨去。享年91。
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