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桂久武(かつら-ひさたけ)は、島津家の分家となる日置・島津家、島津久風の5男として、1830年5月28日に生まれました。
母は、島津一族である末川久泰の娘となります。
長兄の島津久徴(ひさなる)は、第29代藩主・島津忠義の主席家老を努めています。
なお、次兄は、お由羅騒動で命を絶った赤山靭負になります。
桂久武は25歳の頃となる、1855年に、島津家の分家である一所持桂家の桂久徴の養子となりました。
それまでは、島津歳貞と称しており、NHKの大河ドラマ「西郷どん」(2018年)にて、赤山靱負が切腹した際にも、弟・島津歳貞として登場していました。
薩摩藩にて桂久武は、造士館(薩摩藩の藩士の学校)で働いていたとされます。
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しかし、1858年に島津斉彬が死去すると、島津久光派が島津家の実権を握るようになり、兄・島津久徴も家老を罷免されます。
そして、桂久武も、1861年に奄美大島に飛ばされたようで、奄美大島の警護や鉱山管理を担当したようです。
そのとき、1859年から、奄美大島に潜伏していた西郷隆盛と親しくなったようで、亡き兄・赤山靭負も西郷家と縁があったことから、桂久武はやがて西郷隆盛(西郷吉之助)とも深い友情関係となります。
2人は、日本の将来を語るなど、身分の差を超えて、無二の親友とも言える間柄となったようです。
まち、鹿児島に戻ると、桂久武は大目付として復帰し、小松帯刀、大久保利通らと共に藩論を倒幕へと傾けます。
慶応元年(1865年)には家老となって西郷隆盛を支援し、また、上洛すめと木戸孝允とも交流するなどしてし、1866年、薩長同盟にも立ち会いました。
そして、武力による討幕論を支持し、四侯会議を実現させ、討幕の密勅が下されると薩摩藩の佐幕派を抑え、西郷高森の出兵を支援しました。
明治維新となると、明治3年(1870年)、西郷とともに鹿児島藩権大参事となって、鹿児島でのトップとなります。
1871年(明治4年)には、都城県参事、豊岡県権令を歴任しましたが、病気により辞任し、鹿児島に戻ると霧島山麓の開拓指導や、鉱山開発などを行いました。
開拓に必要な費用は、家老だった頃の貯金から自己負担したようで、霧島小学校がある土地も、桂家から無償提供されたとされています。
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明治10年(1877年)、下野していた西郷隆盛が挙兵を決意したとき、出陣する前の晩に桂久武の屋敷を西郷隆盛が訪ねたと言います。
今生の別れとも言うべきこの最後の親交を惜しむかのように、2月17日に西郷の出陣を見送りに行った桂久武でした。
しかし、貧弱な軍隊を見ると、家人に刀を取りに帰らせ、桂久武はそのまま薩軍に従軍します。
そして、西郷軍の大小荷駄本部長(輜重隊の総責任者)となりました。
桂久武は、兵糧部隊を指揮し、最後の鹿児島・城山での籠城にも西郷隆盛と共にしましたが、明治10年9月24日、最後の突撃となった城山の戦いにて、流れ弾に当たり戦死しています。享年48。
島津家の一門として、最後まで西郷隆盛を支援し、友情を育んだ桂久武(島津久武)も、英雄のひとりなのではないでしょうか?
桂久武は、西郷隆盛らと鹿児島の南州墓地に眠っていますが、今でも日本の将来を心配して、議論しているのかも知れません。
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