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秋月悌二朗(秋月悌次郎、あきづきていじろう)は、幕末の会津藩の藩士で、1824年7月2日、丸山四郎右衛門(丸山胤道(かずみち)150石の次男として会津若松城下に生まれた。
会津藩校・日新館の成績は抜群で、飛び級で通常より2年早く卒業。
将来有望な人物として、会津藩から分家「秋月家」の創設を認められ、丸山家の家督は長男の丸山胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称した。
1842年、19歳のとき江戸に遊学。徳川幕府の昌平黌(しょうへいこう)学問所などで学ぶ。
書生寮に入ったが、秋月悌次郎が布団の中で寝たのを誰も見たことがないというぐらいに勉学に励み、1846年には書生寮の舎長となった。
その後、会津へ戻ると日新館儒者となったが、1859年、会津藩より西日本を調査する仕事を与えられ、薩摩・長州など諸国を渡り、帰国すると藩主に報告した。この時、各地の藩士と交遊が生まれ、長州・奥平謙輔とも知遇を得ている。
大老・井伊直弼が、水戸藩士らに暗殺された「桜田門外の変」では、徳川幕府と水戸藩の和解のため会津藩が仲介することになり、その役目を秋月悌次郎が担当する。以降、会津藩は徳川幕府から厚く信任されることとなった。
諸藩の事情に詳しく交際範囲も広い秋月悌次郎は藩主・松平容保の側近として仕え、1862年、松平容保が徳川幕府から京都守護職に任命されると、家老・横山主税に公用方として抜擢され、秋月悌次郎(39歳)や広沢安任は松平容保に随行して上洛した。
公用方と言うのは、政策立案の一員として藩主を補佐する最も重要な役割であり、外部的には朝廷・幕府・諸藩関係者との折衝や情報収集など外交も担当していた。
秋月悌次郎は薩摩藩士・高崎正風らと計画を練り、会津藩と薩摩藩が結んだ宮中クーデターである1864年7月19日の「禁門の変」を起こした。そして、会津藩兵を率いて活躍。
しかし、会津藩・家老の横山主税が亡くなると、後ろだてを失った秋月悌次郎(42歳)は、佐幕派に反感を受けて、1865年、蝦夷地代官に左遷され、斜里代官所に赴任した。
その後、1867年3月に蝦夷から京都に呼び戻され、会津と薩摩の関係修復を試みるが、時すでに遅く、1867年10月には大政奉還、12月 王政復古、1868年1月 鳥羽伏見の戦いとなった。
会津に帰還すると秋月悌次郎は越後口総督の一瀬要人に従って会津領水原代官所に入り、新潟方面からの兵糧確保などに当たる。
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1868年8月の会津戦争では軍事奉行添役として各地に出陣したが、専ら裏方として活動する。
会津若松城が新政府軍に囲まれると籠城戦を指揮するが、これ以上籠城するのが難しくなると、藩命により手代木勝任とともに新政府軍の包囲の中を城を抜出し、米沢藩の協力を得て、土佐藩・板垣退助らと開城交渉した。
秋月悌二朗は、会津藩軍事面の重要な役に就いていた事もあり猪苗代において謹慎。
その謹慎地にて、長州藩士・奥平謙輔から連絡が入り、変装してひそかに猪苗代を抜け出すと、越後の水原に向い長州藩の奥平謙輔・前原一誠に会津藩処分寛大の陳情を行っている。
また、会津の将来を託する人材として小川亮、山川健次郎の優秀な若者を奥平謙輔に預けた。
この山川健次郎の兄は山川大蔵(家老)であり、山川健次郎は白虎隊に所属していたが、長州藩士・奥平謙輔や、薩摩藩士・黒田清隆の理解もあり、明治4年にアメリカ留学し、難関のエール大学に合格し、物理学の学位を取得。
日本に帰国後は、日本人として最初の物理学教授となり、のち、東京帝国大学総長など、当時の日本の最高学府に貢献し、男爵にもなった。
1868年12月には東京伝馬町に移獄され、会津戦争の責任を問われる形で終身禁固刑となる。
しかし、1872年(明治5年)に特赦によって赦免。秋月胤永(かずひさ)と改名し、すぐに新政府に左院省議として出仕。
その後、帰国して農業に従事していたが、明治15年(59歳)で教育を志し、東京大学予備門の教諭に就任、そして、熊本の第五高等学校の教諭になったのは1890年(明治23年)、67歳の時で、熊本では小泉八雲と同僚となった。
晩年は東京に住み、1900年(明治33年)1月1日に従5位。その5日後に、75歳で死去。
墓所は東京都港区の青山霊園。
(参考文献) ウィキペディア、NHK大河ドラマ、あらすじと犯人のネタばれ、福島県観光交流局
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