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国司親相(くにし-ちかすけ)は長州藩の重臣である、寄組の高洲元忠(たかす-もとただ)の次男として、1842年7月22日に生まれた。
初宮は氏神の春日神社。
国司信濃(くにし-しなの)とも呼ばれるが、のちに藩主・毛利敬親より一字を賜り、国司親相と改めている。
次男であったため万倉領主・国司迪徳(寄組5600石)の養嗣子となって、1847年に6歳で家督を継ぐと大組頭となった。
この時、年齢は7歳と藩に届けており、実年齢は1歳低い6歳であったと言う。
この国司家は、毛利元就の嫡男・毛利隆元の傅役を務めた国司元相の家系である。
守役を務めた武将であったため、この国司元相は文武両道の優れた武将であったことだろう。
国司親相は小さい頃から聡明で文武両道の人物だったようで、15歳で妻・妻は和喜子(のちの弥佐子、戸籍名はサヤ)と結婚して元服すると、次第に頭角を現し、1861年には老中に就任。
22歳のとき、1863年には長井雅楽の切腹検視役正使も務めている。
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また、1863年5月10日には、久坂玄瑞らと共に下関海峡にて長州藩初の攘夷実行となったアメリカ船ペングローブ号の砲撃を指揮し、朝廷からも褒勅の沙汰を賜わっている。
この功績により、国司親相は下関防備総奉行に任じられたが、長州藩は八月十八日の政変で京都から追放され、七卿落ちを迎える事となる。
池田屋事件で吉田稔麿が命を落とすと長州藩の出兵が決定し、国司親相は実力が認められて家老に昇格した上で、同じ家老の益田親施や福原元僴、そして来島又兵衛、久坂玄瑞らと共に京都にて長州藩の影響力を取り戻そうと軍勢を率いて上洛。
禁門の変となるが、大敗を喫しして長州に撤退。
やがて第一次長州征伐となると、幕府軍の参謀・西郷隆盛が、和睦の条件として長州藩に対し、国司親相ら三家老の切腹を要求する。
その為、1864年11月12日丑の上刻(午前1時すぎ)、国司親相は徳山藩の預かり先である徳山澄泉寺にて切腹となった。享年23。
首は塩漬けにされ、広島の国泰寺で首実検されている。
辞世の句は「よしやよし 世を去るとても 我が心 御国のために なほ尽さばや」「君がため つくせやつくせ おのがこの 命一つを なきものにして」。
墓所は厚狭郡楠町の天龍寺。墓石は妻と並んでいる。
死後の1888年(明治21年)には靖国神社合祀。1891年(明治24年)には贈正四位。
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