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間部詮勝(まなべあきかつ)は、鯖江藩の第5代藩主・間部詮熙の五男として江戸の鯖江藩邸で、1804年2月19日に生まれた。幼名は鉞之進(えつのしん)、初め詮良と称した。
母は側室・永田氏の娘。
1814年7月に継嗣となって、9月に家督相続が許され、僅か11歳で第8代の鯖江藩主(5万石)となった。
叔父の牧野貞喜(常陸笠間藩守)、山名良蕃、仙台久徳、酒井忠固ら後見人の補佐を受け、藩においては自ら倹約を行い、財政の立て直しに着手。
また、藩内を巡察して庶民とも親しく接したと言う。
1817年4月、将軍・徳川家斉に御目見えして、1818年2月に元服すると、名を詮勝と改めた。
正室は浜田藩第3代藩主である松平康任の娘・簾。
1818年11月16日、従五位下の下総守に叙任。
鯖江藩創設以来、幕政に初めて関与する藩主となり、1826年6月17日、奏者番、1831年5月28日、寺社奉行を兼務。
1837年7月20日、大坂城代に異動し、従四位下に昇叙。
1838年4月11日、京都所司代に異動して、侍従を兼任。
天皇御手許の増額や公卿の増給を検討したり、京の辻々に町名を書いた札を立てるなどの功績が見られる。
1840年1月13日、西丸(大御所・徳川家斉)老中に異動。
鯖江藩は無城であったが、城主大名に格上げされ、幕府から築城の許可がおりるとともに、築城費5000両が下賜された。
1841年3月23日、徳川家斉の推挙にて、将軍世子・徳川家祥(のちの徳川家定)付老中に異動。
しかし、天保の改革を行っていた水野忠邦から、徳川家斉の側近であったと嫌われて、1843年閏9月21日、病気を理由に西丸老中を解任された。
幕政から離れると、藩内に公園を作ったり学業奨励など藩政改革・藩財政改革を行い、海防策を整え、洋式兵制の採用。
軍制改革と並行して、藩校「進徳館」も設置している。
また、琴や碁、書画に親しみ、仏典の研究や写経をして過ごしたと言う。
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1858年6月23日、南紀派の大老・井伊直弼により、罷免された堀田正睦に代わる形で再び老中に復帰し、財政を担当する勝手御入用掛と外交を担当する外国御用取扱を兼務した。
井伊直弼が天皇の許可なく、無断で日米修好通商条約を結ぶと、一橋派から追及を受け、朝廷も釈明を求めた。
こうして尊王攘夷派などの反対が高まり、京では徳川慶喜擁立に失敗した一橋派や水戸藩士は朝廷に働きかけ、孝明天皇は戊午の密勅を水戸藩に下して、大名に井伊直弼の排斥を呼びかけた。
また井伊派の関白・九条尚忠や、井伊直弼の腹心・長野主膳に対する攻撃も表面化し、九条尚忠は辞職に追い込まれた。
井伊直弼は京都においての粛清を決断し、条約調印の説明と称して京都所司代・酒井忠義、次いで6月26日に老中・間部詮勝を上京させた。
京ではすでに梅田雲浜が9月7日に逮捕され、安政の大獄は始まっていたが、間部詮勝の入京を受けて、京での大獄は本格的となったが、間部詮勝も「天下分目のご奉公」と決死の覚悟で挑んでいる。
京都では寺町二条の妙満寺を宿所としたが、最初、間部詮勝は病気を理由に参内せず、朝廷に無言の圧力を加えた。
その後、長野主膳と協力して幕政批判勢力に対して弾圧を開始。
間部詮勝は関白・九条尚忠を復活させて、10月には徳川家茂の将軍宣下の勅許を得ると、入京より37日目にして参内し、関白・> 九条尚忠に条約の無断締結を説明した。
その後、京都所司代・酒井忠義とともに一橋派や尊皇攘夷派の志士を弾圧する安政の大獄に奔走した。
「井伊の赤鬼」に対して「間部の青鬼」と尊王攘夷派から嫌われて、長州藩の吉田松陰が暗殺計画をたてるなどしている。
1858年12月に、ようやく孝明天皇に拝謁し、朝廷から日米修好通商条約調印の勅許を得るが、その後も京都で弾圧を続け、1859年3月に江戸に戻っている。
1859年7月20日、外国御用取扱多忙となり、勝手掛御役を辞任すると、直後の7月23日、老中首座に就任したが、朝廷処分問題などで大老・井伊直弼と対立。
11月28日、外国御用取扱の兼務が解かれ、12月24日には老中を免職となった。
また、徳川慶喜らが復権すると、間部詮勝が老中在任中に安政の大獄に加担したとして、1862年11月20日、隠居謹慎処分となり、1万石の減封うけ4万石となった。
その後、1865年5月に謹慎処分は解かれて。
しかし、明治元年(1868年)10月、新政府から会津藩との内通を疑われて国許での謹慎を命じられた。
同年12月に謹慎を解かれると、明治2年11月、東京・京都へ立ち入ることも許された。
明治3年3月には、東京向島の小梅村に移り住み、晩年は書画や詩歌に没頭し、薙髪して松堂と号した。
明治17年(1884年)11月28日に死去。享年81(満80歳没)。
(参考) Wikipedia
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