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尾高千代 (渋沢千代) とは
尾高千代(おだか-ちよ)は、武蔵国榛沢郡下手計村(埼玉県深谷市下手計)の名主・尾高保孝(尾高勝五郎保孝)と、尾高やへの3娘として幕末の1841年に生まれました。
母・尾高やへは、渋沢栄一の父である渋沢元助(渋沢市郎右衛門元助)の姉と言う事になります。
兄・尾高惇忠(尾高新五郎)が、私塾・尾高塾を開いて、近隣の子供たちに論語などを教えた際に、渋沢栄二郎(渋沢栄一)も数年間通いました。
この縁もあったようで、1858年(安政5年)12月7日に、尾高千代(18歳)は渋沢栄一(19歳)と結婚しました。
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1858年と言いますと、江戸幕府が日米修好通商条約を結び、大老・井伊直弼が安政の大獄を始めたと言う激動の年です。
1859年には横浜港が開港しますが、尊王攘夷の機運は高まるばかりで、1860年には桜田門外の変で、井伊直弼が水戸藩士らに暗殺されました。
1861年から、渋沢栄一は、江戸に出て海保漁村の門下生となっています。
1862年、長男・渋沢市太郎が生まれましたが、僅か6ヶ月ほどで亡くしています。
1863年、水戸学信奉者であった兄・尾高惇忠は渋沢栄一らと決起して、高崎城を襲撃する計画を立てました。
その後、長州藩と連携し、江戸幕府を倒す倒幕計画を立てますが、京から戻った尾高長七郎が説得して中止しています。
兄弟の尾高長七郎は、家から離れられない兄に代わって江戸にて遊学し、長州・水戸・宇都宮など藩士と交流がありました。
この年、長女・渋沢うた (渋沢歌子)が生まれています。
その後、渋沢栄一は、父親から勘当されたと言う事にして、尊王攘夷の活動のため京に赴きます。
しかし、1863年、八月十八日の政変の直後であったため、行き詰まって江戸遊学の際に交際があった一橋家の家臣・平岡円四郎の推挙を受け、一橋慶喜(ひとつばし-よしのぶ)に仕えることになりました。
のち、渋沢栄一は、江戸に屋敷を構えたようで、武家の妻となった渋沢千代も江戸に出たものと推測され、中の家は、渋沢貞子が家を守ったようです。
しかし、渋沢栄一は、武蔵・下野・下総・越後・摂津・和泉・播磨・備中など、一橋家の領内を巡回して、農兵集める仕事をしましたので、引き続きほとんど家にはいなかったものと推測されます。
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主君が徳川慶喜となって15代将軍になると、1867年、パリ万博へ出席する徳川昭武の随行員として渋沢栄一はフランスへ渡航しました。
そして、海外から、渋沢千代の弟である尾高平九郎を名目養子にするように、手紙を出しています。
そのため、江戸にて、渋沢千代と渋沢平九郎(尾高平九郎)は、共に生活するようになった模様です。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れて、江戸に新政府軍が進軍すると、渋沢平九郎は、渋沢成一郎(渋沢喜作)の軍勢に加わり飯能戦争にて行方不明となりました。
<注釈> のちに、渋沢平九郎が自刃していたのが分かった。
渋沢栄一らは、新政府から帰国を命じられ、マルセイユから横浜港に向けて出港すると1868年11月3日に帰国しました。
その後、渋沢栄一は、駿府で謹慎を続ける徳川慶喜に面会し、明治2年(1869年)1月には静岡で商法会所を設立しました。
その後、大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省します。
そして、官僚、実業家として渋沢栄一は実力を発揮して行くのでした。
明治に入ってからですが、渋沢千代は、渋沢千代子と書く場合も多いです。
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なお、渋沢栄一は妾が多いため、庶子も多く子供の数は50人(最大で)ともされています。
1871年、渋沢栄一は、出張先の大阪で現地妻とした「大内くに」と言う女性との間、庶子・ふみを設けるとのち尾高惇忠の子・尾高次郎の妻になっています。
また、大阪での任期が終わると、東京に「大内くに」を連れて帰り、神保町にあった自宅にて、渋沢千代は妾である「くに」と一緒に生活することになっています。
なお、生年は不明ですが、おなじ大内くにが産んだ庶子・照子は、渋沢千代の姉の子である大川平三郎に嫁ぎました。
渋沢千代の経歴
尾高千代(渋沢千代)は、幕末の1841年生まれ
父:尾高勝五郎氏の三女
母:尾高やい は榛沢郡血洗島村の出身
兄:尾高惇忠(尾高新五郎)
兄:尾高長七郎
姉:尾高みち ・ 大川脩三に嫁ぐ
弟:尾高平九郎 (のち養子に迎える)
2人の間の子供
長男:渋沢市太郎(1862年生まれ) (6ヶ月で早世)
長女:渋沢歌子(1863年生まれ) ・ 穂積陳重に嫁ぐ
次女:渋沢琴子(1870年生まれ) ・ 阪谷芳郎に嫁ぐ
次男:渋沢篤二(1872年生まれ)
三女:渋沢糸子 (早世)
養子:尾高平九郎 (渋沢千代の弟 )
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千代の性格:気丈で内助の功あり
没年:明治15年(1882年)7月14日。享年42。
死因:コレラに罹患し病没
死去した場所:東京の飛鳥山自宅
渋沢栄一(43歳くらい?)は、翌年に、伊藤兼子(31歳くらい?)と再婚しました。(お互い再婚)
伊藤兼子の父は、川越の大富豪・伊藤八兵衛となりますが事業に失敗して没落していました。
この時、渋沢栄一の邸宅は、かつて兼子の実家が手放した屋敷だったと言います。
・渋沢栄一の解説 日本の実業界・社会福祉・教育などに大きく貢献
・渋沢成一郎(渋沢喜作)とは 彰義隊・振武軍のリーダー
・尾高惇忠(尾高新五郎) 富岡製糸場の初代場長
・渋沢市郎右衛門の解説 渋沢ゑい(渋沢エイ)も
・平岡円四郎 一橋家の家老で慶喜の側近
・尾高やへ【簡単解説】
・尾高平九郎(渋沢平九郎)とは 渋沢栄一の養子になった飯能合戦の勇士
・渋沢てい~渋沢栄一の妹を解説【青天を衝け】
・渋沢よし「新屋敷」渋沢喜作の妻の解説【青天を衝け】
・渋沢篤二の解説~渋沢栄一の跡取りも廃嫡騒動になった真相は?
・伊藤兼子(渋沢兼子)ちょこっと解説~渋沢栄一の後妻になる12歳年下の女性
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コメント
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コメント (1)
千代は24歳で無くなってますよ