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白石正一郎(しらいししょういちろう)は、長門の赤間関竹崎にて萬問屋(荷受問屋、廻船問屋)の小倉屋主人・白石卯兵衛の長男として、1812年3月7日に生まれた。通称は駒吉。または熊之助。号は橘円。
母は艶子。
小倉屋は米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材などの商品を取り扱った他、質屋や酒造も行っており、商船を所有するなど資金も豊富だったと言う。
下関と言う要所にあって、長州藩をはじめ諸藩からも依頼を受けて品揃えした。
そんな裕福な商家に生まれ、家業を継いだ白石正一郎は、43歳のとき、鈴木重胤から国学を学ぶと尊皇攘夷に強い関心を持つようになり、1855年には西郷隆盛が白石正一郎を訪ねて無二の親友になったと言う。
そのような経緯もあり、1861年に小倉屋は薩摩藩の御用達となったのだが、この西郷隆盛を宿泊させたのが、志士への支援の始まりであった。
一方で月照上人、平野国臣、真木保臣らとも親しく、以降は損得抜きで長州藩の久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎、薩摩藩の大久保利通、小松帯刀、筑前の平野国臣、久留米藩の真木和泉らを資金面で援助した。
土佐藩を脱藩した坂本龍馬、中岡慎太郎なども一時、白石邸に身を寄せ下関での拠点としている。
1863年6月7日、24歳の高杉晋作が奇兵隊を創設した際にも資金援助しただけでなく、奇兵隊の屯所として白石家の屋敷を提供した。
また、52歳の白石正一郎自身も弟・白石廉作と一緒に入隊し、奇兵隊の会計方を務め、7月には長州藩の士分に取り立てられている。
奇兵隊の資金は藩からはほとんど出てなく、西洋式軍装を整えることができたのは白石正一郎が、費用を負担したからだと言えよう。
都から落ち延びた七卿も、下関では白石邸に逗留。病に倒れた錦小路頼徳は白石正一郎が医療費・葬式費用とすべて負担し看取った。
しかし、支援した勤労の志士は400人に及んだとされるように多額な援助を行ってきたため、1865年末頃から資金が底をついてきたと言われているが、明治維新の陰の功労者と言えるだろう。
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白石正一郎の母・艶子(津屋)が奥向きの事を取り仕切り、妻・加寿子と、弟の妻・延子らも協力を惜しまなかった。
三条実美卿は滞在中に「妻子らも心ひとつに君のためつくせる宿ぞさきくもあらめ」と、心暖まるおもてなしに感謝している。
1866年2月23日、肺を患った高杉晋作の母・みち、高杉雅と子の高杉梅之進が下関にやってきた際、高杉晋作は愛人・おうのと生活していたため、白石正一郎に泣きついたと言う逸話もある。
おうのを身請けする資金を提供したのも、白石正一郎だ。
福岡の野村望東尼が、島抜けをした際にも、白石邸にて匿われている。
戊辰戦争以降も、なんとか商売は続けたものの、元奇兵隊の隊士への資金援助は続けたようで、明治8年(1875年)に、ついに自己破産している。
その後は、赤間神宮の2代宮司となり、ひっそりと暮らしたと言う。
そして、明治13年(1880年)8月31日に69歳で死去。
赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木保臣の次男・真木菊四郎の墓が並ぶ。
長州藩や尊王攘夷の志士が思いきり活躍できたのも、この白石正一郎がいたからこそだと言っても、過言ではないだろう。
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コメント
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2015年 4月 29日トラックバック:山本譲二さんが白石正一郎役に決定しました – 大河ドラマ情報
きよひとさま、いつもコメントありがとうございます。
天然理心流の近藤勇もそうですが、このような経済的支援者がいたからこそ、志を遂げる事ができたのだと思い、白石正一郎さんのことを記事にしてみました。
本当に影の功労者ですよね。(^-^)
白石正一郎は、下関の要所にいた豪商ですね。
商売だけでなく各藩の武士とも交流をしていたのですね。地理的に交流をしやすかったのもあったのでしょうね。
白石正一郎は、高杉晋作が立ち上げた奇兵隊に一番最初に入隊していますね。身分に関わらず、誰でも入隊できる奇兵隊らしいと思います。白石正一郎は、奇兵隊にとって象徴的な人物のように思います。又、白石正一郎宅を屯所として提供をしたり、資金面で援助をするなど、まさしく影の功労者ですね。
自己破産するまで元奇兵隊の隊士に援助をしていたとは知りませんでした。奇兵隊に命を捧げたのでしょうかね。
寺田様、いつもコメント、本当にありがとうございます。
ご指摘のとおり、尊王攘夷は、江戸幕府のやり方に反対する上で、都合よく天皇を祀り立てたとも言えます。
結果的に、莫大な財力にて最新の兵器を整えた薩摩藩や、白石正一郎などによる援助でその布石を敷いた高杉晋作らによる「革命」は成功したので、ある意味正当化されています。
しかし、もし失敗して、そのまま徳川幕府が存続していたら、それこそ「逆賊扱い」ですよね。
なので、やはり「事」を起こす場合には、なにがなんでも勝たないといけないのだなと、痛切に感じております。
自己破産ですか・・・。
それでも白石正一郎にとっては幸せだったんだろうけど、ちょっとかわいそすぎますね。
「尊王攘夷」の言葉って聞こえはいいかもしれないけれど、宗教的で危ないカリスマ性を持ってます。
尾崎豊の「自由」とか「危険ドラック」みたいな感じ・・「危険ドラック」は行き過ぎ表現かもしれませんが。
「攘夷」は、いつしか文明開化となり
「尊王」は、やがて飾り物へと戻っていく。
「尊王攘夷」の元に死んでいった人たちの事を思うと
この言葉を簡単に語れないし語りたくないよなあと
まさに学べば学ぶほど痛感しております。