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河上彦斎とは
河上彦斎(かわかみ-げんさい)は、熊本藩の下級藩士・小森貞助の次男として、幕末の1834年11月25日に熊本城下の新馬借町にて生まれた。初名は小森彦次郎。
母は和歌。
11歳の頃、河上源兵衛(河上彦兵衛)の養子となると、河上彦斎と称した。
肥後藩校・時習館にて学問を学んだ。
妻は天為子で、子に河上彦太郎がおり、妻子には優しかったと伝わる。
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1849年、16歳の時、茶坊主となって熊本藩主の花畑屋敷に出仕し、藩主・細川斉護の側で仕えた。
毎日、熊本城の花畑の掃除坊主として勤める傍ら、剣術を磨いたとされる。
掃除坊主から国老附坊主に出世すると、儒学者・轟武兵衛や国学者・林桜園から学び、神風連・太田黒伴雄や加屋霽堅らと、宮部鼎蔵から皇学と兵法などを学んだ。
その影響で、強く尊皇攘夷の思想を唱えるようになる。
清河八郎などとも交流し、尊皇攘夷派として活動すると、蓄髪して僧を辞める事が許された。
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1862年、28歳のとき、京都に上洛すると、長州藩の久坂玄瑞、桂小五郎らと親交し、公家・三条実美の信頼も得ている。
1863年、熊本藩の親兵に選ばれて、宮部鼎蔵らと同様の幹部となる。
この時、幕府の要人を斬ったと言う「人斬り彦斎」の異名で呼ばれる事となるが、確実に斬った人物は1864年7月の佐久間象山だけで、何人斬ったなどは不明である。
河上彦斎は色白で小柄な女性のようだったようで、男色との話もある。
剣は独自の自己流で、片手抜刀の達人であり、低い姿勢からの逆袈裟斬りが得意であったと伝わる。
これらの事から、るろうに剣心「緋村剣心」のモデルにもなっている。
八月十八日の政変にて、京を追われた際には、脱藩して長州藩に赴き、七卿落ちの三条実美らの警護をした。
1864年6月、池田屋事件で宮部鼎蔵が新選組に討たれると、仇を取る為に京へ向かった。
そして、7月11日、西洋の馬の鞍を使って、神聖な京都の街を通行したという理由で、公武合体派で開国論者の佐久間象山を衝動的に斬った。
1864年7月19日の禁門の変では、長州の久坂玄瑞らに協力して参戦した。
この時の久坂玄瑞の死を受けて、より一層、人斬りにはやったとも言われている。
近藤勇でさえ、たまたま出くわすと、思わず避けて通ったとされるが、佐久間象山を斬ったあとは、これ以後暗殺を辞めたともされている。
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1866年、32歳の時、第二次長州征伐の際にも、長州藩に加わって終え応戦し、勝利に後見。
高杉晋作が功山寺にて挙した奇兵隊の総帥に推挙されると、脱隊騒動に関与した。
1867年、熊本藩も攘夷に加わるよう、桂小五郎らの反対を押し切って説得のために熊本に帰ったが、この当時、熊本藩は佐幕派が実権を握っていたため、投獄されてしまう。
そのため、幕末の大政奉還、王政復古、鳥羽・伏見の戦いの時期は、残念ながら獄舎で過ごす事となった。
明治新政府ができたあと、1868年2月に出獄を許され、熊本藩は、河上彦斎を利用して、うまく乗り切ろうとしたが、河上彦斎は協力を断たが、のち再度の要請に答えて、他藩との外交役になっている。
そして、明治新政府の参与に就任すると、藩主の弟・長岡護美に従って上京した。
佐久間象山の子であり、新選組隊士になっていた佐久間恪二郎(三浦啓之助)が河上彦斎の命を狙っているとの噂もあり、長岡護美の助言で、この頃から高田源兵衛(高田源兵)と改名している。
そして、河上彦斎は中山道や東北地方を遊説すると、尊皇を説いた周った。
新政府に出仕しても、まだ攘夷を掲げていた河上彦斎は、開国を進める政府からは厄介者となり、三条実美や木戸孝允らの要人も会わなくなる。
この時、三条実美は「河上彦斎が生きているうちは枕を高くして寝られない」とまで、側近に漏らしていたと伝わる。
明治2年、河上彦斎は熊本藩飛び地の鶴崎に左遷されると、有終館を設立して、海兵200人、陸兵100人の兵士を集めた。
このように藩から兵隊長に任命され、兵法と学問を教える一方、殖産新興のため朝鮮、大阪、北海道との交易にも着手するが、熊本藩から突然免職の通知を受けると、解散している。
この鶴崎時代に、大村益次郎の暗殺事件に関与した大楽源太郎が逃亡してきたのを匿ったと言う事で、翌年には二卿事件への関与も疑われている。
そして、参議・広沢真臣暗殺事件が起こると、熊本藩の獄に繋がれて東京に送られた。
政府要人暗殺や、富永有隣らによる奇兵隊が反乱した際の首謀者と見られた大楽源太郎を匿った事などが露見したため、再び投獄されたとも言う。
政府は河上彦斎の影響力を恐れ、明治4年(1871年)12月4日、日本橋小伝馬町にて斬首となり、不運の最後を遂げた。享年38歳。
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大村益次郎や大村・広沢真臣の暗殺事件への関与は低く、新政府の方針に従わないで、相変わらず攘夷を唱えていた為、反乱分子と見なされ処刑されたと推測する。
河上彦斎が最後まで「攘夷」に拘ったのは、久坂玄瑞らの先に命を落とした同志らの攘夷への思いを、貫いたように思えてならない。
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