カテゴリー:長州藩
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幕末の長州藩士・吉田松陰は、黒船密航の罪で野山獄への投獄、のち自宅謹慎となり「松下村塾」を開き若者と共に学んでいたが、1858年に、老中・間部詮勝を暗殺するため、長州藩に武器の提供を求めた事から、驚いた藩は吉田松陰の動…
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杉千代(すぎちよ)は、長州藩士・杉百合之助(26石)の長女として、1832年に生まれた。
母は、児玉太兵衛の養女・滝(杉滝)。
兄に杉梅太郎、吉田寅次郎がいる。
貧しい杉家を幼い頃から、家事手伝い・内職…
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「おうの」(うの)は1843年に生まれた幕末の女性。
萩城下の油商の娘とも、水戸浪士の娘だともいわれ、出自はよくわからない。
名は「おその」「谷のぶ」とも言い、源氏名は「此の糸」(このいと)。
明治に届け出…
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伊藤梅子は1848年に、山口県赤間関城ノ腰に住む、木田久兵衛の長女として生まれた。最初の名は木田梅子。
17歳の頃、亀山砲台があった、亀山八幡宮境内のお亀茶屋にて、お茶子をしていた際に、伊藤博文と出会った。
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弘中勝之進は、人を切った殺人の罪で、長州藩の野山獄に収監されていた。生没年など詳しい事は全く不明だ。
吉田松陰が入った際には既に17年も獄中にいたとされるが、士分が入る野山獄にいたので、恐らくは長州藩士であった…
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志道又三郎(しじまたさぶろう)は1803年生まれの幕末期の長州藩、野山獄の囚人。
井上喜左衛門に関しても、野山獄にいたと言う事以外、よくわからない。
「花燃ゆ」では、井上喜左衛門が捨ててあったお手玉を高須久…
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佐世元定(福原越後)は、長州藩支藩である周防徳山藩主・毛利広鎮の6男として、1815年8月28日に生まれた。
母の名は不詳。
六男であり家督を継げなかったので、長州藩士・佐世親長(益田就恭の実弟)の養子とな…
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幾松(いくまつ)は、若狭小浜藩士・木崎市兵衛の娘として、1843年に生まれた。
母は三方郡神子浦の医師・細川益庵の娘・末子。
父・木崎市兵衛は、若狭小浜藩主・酒井忠義に仕え、町奉行の祐筆であったが、藩内の事件から…
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