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北海道函館市にある五稜郭(ごりょうかく)は、函館を代表する観光スポットのひとつになっています。
そんな五稜郭の成り立ち・歴史と、五稜郭観光がお得にできる攻略情報などを掲載したいと存じます。
久しぶりに五稜郭を訪問しましたが、五稜郭は、かれこれ5回目くらいです。
五稜郭は、幕末に箱館を開港した際に、函館山の麓にあった箱館奉行所の移転先として築城されました。
設計・建設は箱館奉行所に勤務していた武田斐三郎で、箱館ではアメリカのマシュー・ペリー提督とも会談していますが、五稜郭の完成を見ることなく江戸に戻り、洋学所(東京大学の前身)の教授並となっています。
1866年に完成した五稜郭ですが、当時としては最新の西洋築城術を用いた稜堡式城郭となる星形要塞です。
別名を亀田役所土塁、ネコヤナギが生えていた湿地帯に築いたことから柳野城とも言いますが、ほとんど五稜郭と呼ばれることが多いです。
しかし、完成から2年後に大政奉還、そして戊辰戦争となって江戸城が勝海舟と西郷隆盛により無血開城し、徳川幕府が崩壊します。
函館には新政府によって、1868年4月に函館府が五稜郭に設置されましたが、10月21日、旧幕府艦隊を率いた榎本武揚が、鷲ノ木(北海道森町)に上陸し、函館に陸路進軍を開始します。
函館府の清水谷公考は、抵抗を試みますが戦力差もあり、10月25日に青森へ逃亡したため、無人となった五稜郭に10月26日、松岡四郎次郎らが入城して占拠しました。
榎本武揚は11月1日に五稜郭に入り、松前城などの攻略にも乗り出しています。
また、五稜郭では大鳥圭介らの指揮のもと、大砲が設置されたり、堤などの修復が施されました。
そして、12月15日、蝦夷地平定を宣言した榎本武揚は、士官以上の選挙により「蝦夷共和国」を樹立させ、箱館政権の総裁になっています。
蝦夷共和国の幹部リスト
・総裁
榎本武揚(33歳)~旧幕府海軍副総裁
・副総裁
松平正親(30歳)~旧幕府陸軍奉行並
・陸軍奉行/裁判局仮総督/伝習隊総督
大鳥圭介(37歳)~旧幕府歩兵奉行
・陸軍奉行並/裁判局頭取/箱館市中取締/新選組総督
土方歳三(34歳)~元新選組副長
・海軍奉行
荒井郁之助(34歳)~旧幕府横浜海軍伝習所生
・箱館奉行/(矢不来台場総督・弁天台場総督)
永井尚志(53歳)~旧幕府大目付
・箱館奉行並/砲兵頭並/中島隊隊長(千代ヶ岡総督)
中島三郎助(48歳)~旧幕府浦賀奉行与力
・松前奉行/遊撃隊総督
人見勝太郎(26歳)~旧幕府の遊撃隊
・江差奉行/(歩兵頭並・四稜郭総督・一聯隊総督)
松岡四郎次郎(33歳)~旧幕府の遊撃隊
・江差奉行並/開陽一等蒸気役
小杉雅之進(26歳)~長崎海軍伝習所出身・開陽丸機関長
・開陽丸艦長/開拓奉行(室蘭奉行)
沢太郎左衛門(35歳)~オランダ留学生で元開陽の副艦長。
・会計奉行
榎本道章(36歳)~元幕府目付
川村録四郎(年齢不明)~経歴不詳
・大砲頭取/軍事外交補佐
Jules Brunet(ジュール・ブリュネ)(31歳)~元フランス陸軍砲兵大尉
・海陸裁判所頭取
竹中重固(41歳)~旧幕府陸軍奉行、純忠隊隊長。
・箱館病院頭取
高松凌雲(33歳)
会津藩主・松平容保の実弟である松平定敬(桑名藩主)も会津から榎本に同行して五稜郭に入っていました。
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なお、榎本武揚らは急務の軍資金を確保するため、豪商らから資金を調達したほか、一本木に関所を設けて通行税を徴収しました。
一本木関所では、売春婦や縁日からも税を取ったり、女子供にも通行税を課したりしたため反感を買い、箱館住民の評判は良くなかったと言います。
榎本武揚は、函館にやってきたイギリス公使ハリー・パークスや、フランス公使ウトレーに「蝦夷共和国」を独立国家として認めるよう会談しますが、中立の立場をとり外国は榎本武揚の箱館政権を認めませんでした。
12月になって中立の立場だったアメリカが明治新政府を支持したため、幕府が発注していた装甲艦・甲鉄が、新政府軍に渡ります。
旧幕府軍の榎本武揚らは、宮古湾までた回天、蟠竜、高雄の艦隊を派遣して、移乗攻撃(アボルダージュ)作戦を実行しますが失敗しました。
この結果、雪がやんだ翌年春からは、新政府軍の反撃を受けます。
1869年(明治2年)4月9日、新政府軍は蝦夷地・乙部に上陸します。
戦力的(兵力的)には蝦夷共和国が陸軍約3000、海軍約800に対して、新政府軍は陸軍約8000、海軍約1500といったところです。
榎本武揚は、松前の戦いで敗れると函館に迫る新政府軍を迎撃するため、土方歳三を二股口、大鳥圭介を木古内に派遣します。
木古内の戦いで敗れた大鳥圭介が、陣を退けると矢不来の戦いでも敗走したため、唯一、二股口の戦いで奮戦していた土方歳三も4月29日に退却して、旧幕府軍は函館に全軍撤退しました。
4月30日には千代田形丸が新政府軍に拿捕され、5月7日には回天の機関部が損傷。
そして、5月11日より、新政府軍は海と陸から函館(箱館)への総攻撃を開始するのです。
敗色濃厚であったため、ブリュネらフランス軍人は5月2日に、フランス船で箱館を脱出していました。
唯一残っていた蟠竜丸も座礁し、四稜郭の松岡四郎次郎も五稜郭に退却して、新政府軍は箱館市街を制圧します。
孤立した弁天台場の救出に、土方歳三が向かいしますが、一本木関門付近で狙撃されて戦死しています。
5月12日からは、五稜郭の城内にも新政府軍の大砲が着弾するようになり、砲撃は日夜問わず行われたため、榎本武揚らは建物で寝ることもできなかったと言います。
箱館病院長の高松凌雲が、新政府軍の仲介を受けて、五稜郭に降伏勧告の使者を送りますが、5月14日、榎本武揚らは拒否。
しかし、敗戦を悟っていた榎本武揚は、オランダ留学時代から肌身離さず持っていた海事に関する国際法と外交に関する書物「海律全書」は、日本のために役に立つと、戦火で失われるのを避けるため新政府軍の海軍参謀・増田虎之助に贈りました。
5月15日、五稜郭の前哨である千代ヶ岱陣屋(津軽陣屋)では、浦賀奉行所時代の仲間と共に指揮を執っていた箱館奉行並・中島三郎助が降伏を拒否して、2人の息子とともに戦死し陥落しています。
また、一時は函館山奪還を目指し失敗して孤立していた、箱館奉行・永井尚志の弁天台場も兵糧がつき、5月15日、永井尚志ら240名は降伏しました。
なお、函館戦争では、両軍とも激しく戦っていますが、その裏では紳士的な対応をしていると言う印象が強いです。
新政府軍は、五稜郭にいる250名の傷病者を湯の川へ移送するのも許可しました。
榎本武揚も捕虜10名を無条件で釈放しています。
また、海律全書のお礼として、新政府軍の黒田清隆らは海軍参謀の名で感謝の意と、酒樽五樽・鮪五尾を5月16日に五稜郭に送っていますが、それを受けて榎本武揚が返礼と翌朝7時までの停戦を願い出ると、黒田清隆も了承しています。
その晩に、五稜郭では降伏することが決定し、17日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、新政府軍最後の屯所があった亀田八幡宮を訪れます。
そして、新政府軍の陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見しました。
榎本武揚は自分の命と引き換えに、将兵の助命を願いでますが、黒田清隆は認めていません。
黒田清隆は、榎本武揚ら有能な人材が失われるのは損失だと考え、無条件降伏の説得を行い、5月18日に五稜郭は開城し、約1000名の旧幕府軍兵士が投降しました。
榎本武揚は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納しており、戊辰戦争は終結しました。
現在、五稜郭は五稜郭公園として整備されており、城内には約28億円で建造した箱館奉行所庁舎が復元されています。
箱館奉行所は4つのゾーンに分かれており、奉行の執務室や大広間などを見学できます。
五稜郭への入場は無料です。
隣接する約60mの五稜郭タワーからは、星型の五稜郭を望むことができます。
毎年4月下旬には、桜(ソメイヨシノ)が一勢に咲き誇り多くの観光客で賑わいます。
秋の紅葉も良いところでして、五稜郭の見学所要時間は40分~90分といったところです。
五稜郭への行き方・アクセスですが、クルマの場合、当方オリジナルのGoogleマップにて、近隣有料駐車場の入口がわかるようにしてあります。
函館市電(路面電車)の場合は、 函館駅前から「湯の川行き」に乗車して約17分、「五稜郭公園前」電停で下車し、徒歩で約10分となります。
バス利用の場合、函館駅前発着の「五稜郭タワーシャトルバス」の運行もあります。
なお、私が必ず購入する北海道のお土産は、六花亭のマルセイバターサンドです。
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昔は通販も無かったので、ほんと、北海道に行くか、都市部での「北海道物産フェア」などでしか手に入らなかったのですが、今では「通販」もあるので、食べた事が無いと言う方は、お試しあれ。
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ブリュネはラストサムライのモデルです。
旧幕臣のために戦ったというよりむしろ幕府がなくなりフランス人が全員帰国する中
自分まで帰国してはフランスにとって都合が悪いということで合流しています。
退官届にこのような記載がしっかり残っています。
その退官届のおかげでフランスに帰国しても国民の支持が得られ偉いさんになってます。