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調所広郷(ずしょ-ひろさと)は、薩摩藩の城下士(下級藩士)・御小姓組の川崎主右衛門基明(川崎兼高)の次男として、1776年2月5日に生まれました。
天明8年(1788年)、に、同じ御小姓組の調所清悦の養子となります。
そして、寛政2年(1790年)、調所清悦と改名すると、表坊主(茶坊主)として出仕しました。
1798年には江戸に赴き半年ほど勤めた後、御隠居御付の奥茶道となります。
奥茶道と言うのは、茶道師範として、藩主などに作法を教えたりする、茶道の筆頭に近い役目となります。
この時、隠居していた前藩主・島津重豪に才能を見出されました。
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調所広郷は、大工の事は大工に、商売の事は町人に、農業の事は農民にと、その道に詳し者から勉強していたようです。
そして、聞かれたことは、即座に回答でき、また、明け方まで書き付けをするなど、大変勉強に熱心な青年だったとされます。
そして、1804年頃、藩主・島津斉興(島津斉彬・島津久光の父)の奥茶道として仕えるようになりました。
その後、頭角を表し、1814年、38歳の時には、薩摩藩重役の御小納戸に抜擢され、蓄髪を許されると言う異例の出世を果たし、名も調所笑左衛門と改めました。
また、使番・町奉行などを歴任した他、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務します。
そして、500万両ともされる巨額な薩摩藩の財政赤字を打破するため、1824年に調所広郷は、唐物貿易の調達掛を命じられ、琉球や清との密貿易にも携わります。
また、奄美大島などの砂糖を藩内産物として買上げて藩の専売とし、藩債を富豪に強制的に購入させるんどして、巨額の資金を調達し、財政を立直そうとしました。
1832年には家老格に、そして、1838年には、ついに家老にまで出世します。
そして、天保11年(1840年)には、250万両の蓄えが出来るまで、財政を回復させ、幕末期では国内屈指の富裕藩となります。
しかし、島津斉彬と島津久光による争いであるお由羅騒動となると、調所広郷は島津久光に味方します。
実権を握りたい島津斉彬は、幕府老中・阿部正弘らに、薩摩藩が密貿易をしていると言う情報を流したため、1848年、江戸にいた調所広郷は徳川幕府から尋問を受け失脚します。
そのとき、調所広郷は責めを一身に負い、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて毒をあおって自殺したと言われています。
嘉永元年(1848)12月18日のことでした。享年73。
調所広郷の家は、島津斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格が下げられています。
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ただし、調所広郷の三男・調所広丈(読みをちょうしょに改称し、ちょうしょ-ひろたけ)は、戊辰戦争と箱館戦争に参加し、のち北海道開拓使となります。
その後、札幌農学校初代校長・札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・貴族院議員など、父と同じように本領を発揮し、最後には男爵に叙されて華族となり、明治政府に貢献しています。
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