嘉納治五郎とは オリンピック「日本体育の父」3分でわかるジゴローカノーの生涯

嘉納治五郎



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嘉納治五郎(かのう-じごろう)は、兵庫県神戸市東灘区御影町の名家にて1860年10月28日に3男として生まれました。
幼名は伸之助。
実家は酒造・廻船の経営をしており、江戸幕府の廻船方御用達も務めており、勝海舟を援助していたと言います。
本嘉納家は菊正宗酒造や、白鶴酒造の嘉納家といった一族も有名です。

1870年(明治3年)に父が明治政府に勤務するようになると、嘉納治五郎も東京に出ると英語を学ぶなど高等教育を受けます。


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1877年(明治10年)には16歳で東京大学に入学するなと学業は優秀でしたが、少年時代から身体が弱く、イジメにあう事があったようで、強い者に勝ちたいと柔術を始めます。
1879年には、ユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領が日本に来た際に、渋沢栄一から依頼されて飛鳥山別荘にて、柔術を披露しています。
その後、独自の理論を確立した「柔道」を作ると、1882年(明治15年)には、21歳で永昌寺にて道場「講道館」を創設しました。
この講道館(こうどうかん)は、現在も柔道普及の諸活動を行っています。
のちに「姿三四郎」のモデルとなる天才柔道家・西郷四郎(会津藩家老・西郷頼母の養子)も講道館四天王の一人です。

そして、明治31年には、旧制中学の必修科目として柔道が採用されるに至りました。
妻は、外交官・漢学者の竹添進一郎の娘・須磨子で、2男に恵まれています。

1891年には、旧制第五高等中学校(熊本大学)の校長として赴任し、小泉八雲や夏目漱石らが慕って教鞭をとったと言います。
その一方で、嘉納治五郎は学習院の教頭として教育者として活躍しており、1893年(明治26年)からは通算で25年間、東京高等師範学校(筑波大学)で校長も務め、体操科を設置し、全学生も参加する「大運動会」も実施しました。
筑波大学は現在でもスポーツ分野が優れていますが、そのため、筑波大学キャンパス内には、嘉納治五郎の銅像もあるそうです。

また、成瀬仁蔵広岡浅子大隈重信も関わった、日本女子大学の創立委員も果たし、文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛なども兼務しました。
その他、英語学校「弘文館」を設立したり、清国からの留学生受け入れにも尽力するなど、国際的な方面にも目を向けます。



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やがて、1909年(明治42年)には国際オリンピック委員会会長クーベルタン男爵の要請を受けて、アジアではじめてのIOC委員(国際オリンピック委員会の委員)にジゴローカノーこと嘉納治五郎(48歳)が就任しました。
1911年(明治44年)には、大日本体育協会(日本体育協会)を設立すると会長に就任し、より強力に日本にも国際スポーツへの参加を促します。
1912年(大正元年)には、日本が初めてストックホルム・オリンピックに参加しますが、このとき「日本体育の父」とも呼ばれた嘉納治五郎が団長を務めました。
そして、1936年(昭和11年)、71歳のときには、IOC総会で念願の、1940年(昭和15年)の東京オリンピック招致に成功します。
しかし、その2年後、1938年にカイロで開催されたIOC総会から、ギリシャ、アメリカを経てバンクーバーから氷川丸にて横浜へ帰国する途中、肺炎で死去しました。享年77。
このとき、たまたま同じ船に乗船していた平沢和重が看取っています。
貴族院議員も務めた嘉納治五郎の生前の大きな功績に対して、明治政府は、勲一等旭日大綬章を贈りました。
ただし、嘉納治五郎がなんとか開催へと交渉した1940年(昭和15年)の東京オリンピックは、日中戦争の激化から中止が決定します。

この嘉納治五郎の意思は、次男の嘉納履正(かのう-りせい)が継いでおり、のち全日本柔道連盟の初代会長に就任すると、1964年の東京オリンピックから柔道を正式種目にすることに成功しています。
現在では、約200の国と地域が、国際柔道連盟に加盟すると言う盛況ぶりです。



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ちなみに、永昌寺の境内には「講道館柔道発祥之地」の石碑があります。
2000年9月には、ロシアのプーチン大統領が、東京都文京区にある講道館を訪ねました。
オリンピックや世界柔道選手権大会に出場する、柔道日本代表選手団は、必勝祈願として、嘉納治五郎の墓参りをしてから、大会に挑んでいます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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