芹沢鴨~壬生浪士組筆頭も暗殺されるその要因は?


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 芹沢鴨(せりざわ-かも)は、水戸藩の浪士であるが、出自や生年には諸説あり謎が多い。

 北茨城市の神官である下村祐斉義次の娘と結婚し「下村嗣次」と言う名が前名とされ、1860年頃は玉造勢に加わり、石岡や潮来の豪商・豪農から攘夷の為の資金調達をしたとされる。
 しかし、その手法は恐喝に近かったようで、徳川幕府は水戸藩に対して攘夷活動の抑圧を指示した事から、水戸藩は天狗党などの浪士を捕縛している。
 このとき、玉造勢も弾圧され、下村嗣次は1861年3月28日夜に牢獄へと入れられた。
 その後、、武田耕雲斎らが水戸藩の執政となり、天狗党が政権を奪取すると、12月に大赦令が出ているため、下村嗣次らも出獄を許されたものと推定する。

 そして、下村嗣次は芹沢鴨と、名を改めたものと推測できる。

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浪士組

 1863年2月5日、清河八郎の計画により江戸で結成された幕府の「浪士組」に新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助らと共に参加。
 芹沢鴨は六番組の小頭に任命されている。浪士組には試衛館の近藤勇土方歳三沖田総司山南敬助らも加わって、京に登った。

 京に着くとたん、清河八郎は、浪士組を朝廷の直属として、攘夷決行のため江戸に戻る事を宣言したが、芹沢鴨や近藤勇らは反対して京都に残留した。

 そして、京都守護の会津藩に嘆願書を提出すると、会津藩の「御預かり」となり、八木邸を屯所として「壬生浪士」と名乗った。

 内部抗争で殿内義雄が暗殺されて、根岸友山らが離脱すると、壬生浪士組は芹沢派と近藤派に別れたが、のちに芹沢鴨・近藤勇・新見錦が局長となり、そのうち芹沢鴨が筆頭となった。

 しかし、活動資金調達の為、芹沢鴨・近藤勇らは大坂まで出向いて、商家から資金提供を受けるなどしたが、恐喝まがいであったことから、のち会津藩から手当が支給されるに至る。

 1863年6月3日、芹沢鴨は大阪にて、すれ違った力士を暴行し、力士側に死傷者が出た。
 芹沢鴨の酒乱もひどかったことから、のち近藤勇らが暗殺するキッカケにもなった。

 八月十八日の政変では、壬生浪士組を率いて御所を警備している。

 1863年9月、吉田屋の芸妓・小寅と付き添いの芸妓お鹿の2人が言う事を聞かないとして、髪を斬り落とす狼藉を働いた事から、朝廷から芹沢鴨の逮捕命令が出る。
 会津藩は秘密裏に近藤勇らに命を下し、9月16日(または9月18日)、泥酔した芹沢鴨は近藤勇らに暗殺される。

 屯所・八木邸の一角にて一緒に寝ていた平山五郎や、芹沢鴨の妾・お梅も惨殺されたが、平間重助は逃亡している。
 永倉新八の記録によると、土方歳三・沖田総司・藤堂平助・御倉伊勢武らが実行したとある。

 事件は長州藩の仕業とされ、芹沢鴨と平山五郎の葬儀が盛大に行われた。
 墓は京都市中京区の壬生寺にある。

芹沢鴨と言う人物は?

 芹沢鴨を語る逸話があるのでご紹介したい。

 芹沢鴨の背は高く、でっぷりとしており色白で、目は小さい方だったと言う。
 年齢の印象は35歳くらいで、酔わない時には、ざっくばらんな、いかにも豪傑らしい、いい気質の人物であったと言う。
 しかし、よく酒を飲み、酔ってくると短期でわがままになり、剣に優れている上に腕力もあったので、 暴れ出すと静めるのに骨が折れたとされる。

 (参考) Wikipedia

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